邪悪なことを求めればその非礼は受けない。そうでなくても信はそう言った頭の中に宿りあらゆる禍になる。和光の神と自分の魂とは同じである。例えば、門のあたりに小便をかけても何も起きない。もしそこに縄を張り紙垂を下げれば、流石に小便をする人はいないだろう。これはここに神がいらっしゃるというはいうが、しめ縄を見て神がいらっしゃる心の神が止めれば、天地の神と合体して小便を留まるので、それでも小便をすればお咎めをうけることになるだろう。また神仏なんぞ存在しないという人と神仏を信心する人とを比較すると人間の一生は幸ばかりではない。もし不信心の人は不幸に遭えば、この人は神仏に向かう気持ちはなく不正直であるのでこんな目に遭うことはないと思っているので、人に憎まれることになるだろう。

 

また信心の人の家に不幸なことが起きれば、この人は以前にやらかした業があったのだろう、今この罪を滅せればこの後は良くなるはずだと、他人を憐れんで恵んでやることが徳につながる。

 

あるいは国に不吉なことがあっても取るに足らない事にても、あらゆる人が不吉だと覚悟すれば不吉になる。神仏を祈り祈祷をしっかりすれば、庶民は安堵して却って吉になる。これこそが神仏の恵みではないだろうか。天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずであろう[1]

 

信心があればこれを呼びよせ、人を呼びよせれば神仏が恵む。信心とは信(まこと)の心と読む。信とは正直である。詩の三百一言[2]を思い邪な気持ちのない三字を重視する。

 

晋の謝霊雲[3]という人が曲笠をかぶって歩いていた。

 

ある人が言った。

 

「あなたは常に正直を好んでいながら、曲笠をかぶるのはどうしてなんだ。」

 

霊雲は言った。

 

「影を恐れない者は思いを忘れることはできない。私がこの笠の影が曲がっているのを見て思いを真っすぐにしようと思う。」

と言ったそうだ。

 


[1] 何かをするに際しては、それに携わる人々の心が一つになっていることが最も大切だ、ということ。

[2] 『詩三百、一言以て之を蔽えば、曰く、「思、邪無し」と』詩経三百篇の精神を、一句で言い尽くせば、「真心にあふれている」ことだ。

[3] 謝 霊運(しゃ れいうん、385年 - 433年)は、東晋から南朝宋にかけての詩人・文学者

 

こういうことですね。

 

こういうのをつけてから、不法投棄が減ったそうです。こういうのがいっぱいあるってのは、逆に不気味ではありますが。

 

自分を律するなんてのは、なかなか難しいもんですよ。よくyoutubeで出てくる泥ママの話は、あれでも泥ママ本人は自分は正常で常識人だと思っていますから。