第二の無欲大欲というのは、わずかな利益や口銭を取らず、それよりも仲良くなって商いを手広くするか、または損であっても相手を手名付けるか、例えば開帳後生の講頭[1]など特に信者や世話焼きと言われるのも、はじめは信心からで後になると興味からが八割、無欲大欲の取り込む類のもので、この工夫を稼業にも取り込んで、その評判から金儲けにつながることもある。これは言わずとも無欲という点で考えなさい。

 


[1] 頼母子講の代表者、世話役。今でいう極めて小規模の信用組合のようなものの代表者。

 

頼母子講あるいは講は、本来はお寺や神社に集団旅行に行くための積立金集団で、病気などで行けなくなった場合は、その積立金から金を借りることができるというまさに互助会というか信用組合というかそんなものでした。江戸時代も末期になると、宝くじのような性格が強くなりろくでもない者の省庁のように言われるようになりました。

 

今でいうと、商工会みたいなもんでしょう。あれ面倒臭いんですよ、会費は高いし、勉強会と称してその後の飲み会とか。講演会もワンパターンか政治がらみ。ちゃんとした候補者ならまだしも・・・

 

でも、そこでの働き方を先輩方が見ていて、こいつは信用なるとなれば仕事をくれます。

 

ところが、文化圏として近いと言われる台湾は全然違うんですよ。明確にこの利点がある、すぐに効果があるとならないと、「それは何の利点があるんだ!」とばっさりやります。あまりにもそのバッサリやるのが、豪快なので逆に気味がいいぐらいです。それだけ動きが速いという点では、立派なもんだと思います。日本の影響を受けた年寄りの人たちは、こういう感覚はかなり強く持っていますね。

 

こういう感覚が社会貢献的につながるんでしょうね。