「世の中を渡り比べて今ぞ知る阿波の鳴門は波風もなし[1]」と安部野聖[2]が詠んだように、実に世の中を生きていくのは難しい。
とはいうものの、質素倹約を守り、人に負い目を受けるようなことをしなければ、生活しにくいということもあるまい。書店の興文堂の主人は現銀ということについて、思うままのことを私に語った。その教えてくれたことを教訓本にして欲しいということで、実にやぼったい話だが、屁理屈とも思えないので、私の下手な文章ではあるがこの本を書いた。ただありのまま現銀大安売りを本の題としてこのように印刷することになった。
天保という年の十と三歳で萩の咲く月の頃[3]
好花堂のぬし
[1] 「世の中の激しさから比べれば、鳴門の渦なんぞは大したことはない」の意味。
[2] 諸説様々だが吉田兼好が詠んだとされるのが有力。
[3] 西暦1842年の9月ごろ
今日から新たな物語に入ります。
現銀というのは今でいうところの現金です。西の銀遣い、東の金遣いというように、西日本と東日本では使われる通貨に違いがあったようです。