「富貴は天にあり、死生命にあり[1]」というのは、聖人が人としての生き方を教えるための金言である。富貴は天にあるからと言って、普段寝て暮らしているような人に福が来るなんてことはあり得ない。死生命にあるからと言って、みだりに淫に酒を飲んでいれば体を壊し、天命を待たずに死ぬだろう。

 

だから大きな富は天にあり、わずかな富は人にありと言われる。大きな功績を遂げて、富が世界中に渡るようなことは天命なので、人の力が及ぶところではない。

 

町人の身分で富貴のことを言うのは些細な事であり、天命を云々するほどのことではない。どんなことでもその商売に工夫をして精力を傾ければ、その身分相応の富を得られるだろう。

 


[1] 『論語』の「顔淵第十二」にある一節。「死生有命、富貴在天。」『死ぬことも生きることも、天によって定められた運命であり、富むも栄えるも、また天によって定められた運命である。』

 

せんだってのNHKの番組もそうですが、努力もしないで文句垂れるのは一生そのままですよ。

どんなに周りがお膳立てしてやっても、ちゃぶ台返しして以上終了だと思います。

 

上手くいかない人は、文句を言いながらアル中一直線、そういう大学の同級生がいました。結構いいところのおぼっちゃまでしたが、一回踏み外して不貞腐れてそこから延々と。酒気帯び運転で一回停職処分、2回目で懲戒免職になり、一時期はアル中回復のための強制入院その後は行方不明です。

 

一方、目指した高校の先生にはなれず、それでもコツコツとやり続け、不動産業でとんでもない財を築いた同級生もいました。そんなもんですよ。