一如上人は

 

「そうは道無斎殿は申されても、仏の道は金銀の及ばぬものですよ。」

 

というと、道無はまあまあさてもさても愚かですな。上人の言葉とは思えません。ではでは、坊主の金好きを語りましょうか。仏法の説話の時、須達長者[1]は金を道に敷き、こんはらけの花を純金で作り仏に捧げたところ、仏は大いに含み笑い、『まことに須達長者は仏法の大守護神だ。この人は本当の在家の大菩薩だ』と記別[2]なさった。これは昔の物語で、近年ではある大福長者に見える人を連れて黒谷詣[3]でをしたとき、上人が出てきて、この道無を見ることもなく、その金持ちの男を丁寧にもてなし、この道無に向かって席を外してくれとあしらったのですよ。金持ち男を近くに呼んで御参詣ですかな。仏法のどんなことでもお尋ねください。宗門の内のことは残さず話しましょうとネズミを見つけた狐のように躍り上がって走り回り、色を変え品を変えて御馳走していました。この道無は金の世界かとわかっておりますので少しも騒がず、ちょっと用があるかのようにして門の外に出て、小石を銀二枚ほどの重さにして包んで懐に入れて、元の座敷に戻りました。そして上人に向かって取り出して、最近可愛がっていた孫を一人亡くしましてと言ってやりましたよ。老いの身だけが残り、若木の花が散るのを見てやるせないのをお分かりください。せめて追善のためにわずかではございますが、差し上げます。と包みを渡したら、上人は大喜び。さてさて、一緒にいた金持ちは『道無殿は物に頓着しない一筋者で、念仏でさえも人に聞こえないようにもうすひとなのです。普段は京都にいますので、誠に思う方にお渡しください。都がどんなに広いからといってもこのような人はいないでしょう。』いうと、『小僧ども、あの道無殿のお供の人に酒を勧めなさい。道無殿へ一宗の大事ではございますが、このような信者を伝えなければ、開山した初代の御心に背くことになります。』とすぐに念仏を唱えるように伝えたのです。このとき、道無はさても金持ちの威光だなと石を金に見立てただけで、このように人の心は変わるのです。ますます有難く思えてきますね。金を持っていくときは極楽世界で、貧しいものは例えば極楽に行っても、元はといえば金好きの極楽なので、そこにいる人たちからは追い出されてしまうでしょうよ。こういうのを見ますとね、仏道も金が大事なんですよ。」

 


[1] 釈迦 (しゃか) の時代、中インド舎衛城の長者。波斯匿 (はしのく) 王の大臣。釈迦に帰依し、祇園精舎を献じた。

[2] 仏が弟子に成仏することを予言し記すこと。

[3] 岡崎神社(京都府京都市左京区岡崎東天王町 51番地)のことか。

 

思い出します。あるお寺の坊主、お盆のお布施で「こんな失礼な金額を受け取れるか!」と。

 

跡取り息子が謝りに来たそうです。