と書くと、まるでやまゆり園の事件のようですが、全然違います。

 

昨日の某TV番組を何となく見ていた時に、イタリアでは80歳を過ぎた武漢ウィルス患者には治療をしないことが紹介されていました。日本ではどうすべきかの話になったときに、コメンテーターとして出ていたN弁護士の発言がありました。

N弁護士は、「年齢制限するのはおかしい、医療は平等に受けられるべきだ。」という趣旨だったかと思います。いかにも弁護士らしいなぁと思って聞いていましたが、N弁護士はあくまでも法の下の平等の観点での発言でしょう。一種の職業病ですね。

しかし、イタリアの場合はこれまで医療費の削減で病院も医師も看護師も、医療機械も大幅に減らされている状態です。人工呼吸器は、すでに使われており、これ以上新規患者には回す余裕がないからそのような政策をとっているのです。望んで老人を放置しているのではありません。

日本では、別な番組によると日本国内では、やはり未稼働の人工呼吸器はほぼないと言っていいようです。つまり、人工呼吸器をつけるには何らかの優先順位が必要だということになります。その際に、何らかの基準が必要だということになります。

 

倫理学のテーゼで「トロッコ問題」というのがあります。

 

「暴走する路面電車の前方に5人の作業員がいる。このままいくと電車は5人をひき殺してしまう。一方、電車の進路を変えて退避線に入れば、その先にいる1人の人間をひき殺すだけで済む。どうすべきか?」……つまり「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?」

 

おそらく5人のうち1人すらも助けられない台数しかないようです。この文脈で話が進んでいるのに、N弁護士の発言があったのです。彼は、この倫理問題を知らないとは思えませんが、それでも平等であり続けるべきだと述べました。ある意味実に日本人的だなぁと思うと同時に、この人がトップになったら全滅するだろうとも思えます。

実はこれをパロディー化した映画があります。

 

 

 

 

結局無意識的に建前だけで話をして、物事が決まらない状態、何も決めないまま過ぎていくことが描かれています。この会議自体が悪い意味で日本的です。つまり現実問題に当てはめると、医者がだれを選ぶかで医療行為が止まる可能性を示唆しているのです。

人生の折り返し点を過ぎた私にはまだまだやり残したことはありますが、呼吸器装着の対象外になったとしても子供たちの世代は生き残って欲しいと思います。

間違ってもN弁護士のような思考停止にならないよう、医者が倫理の問題で苦しまないように、ある程度は今から方向性を医師会あたりで決めてやってはいかがでしょうか。

 

また、ある弁護士の元国会議員の発言では、「自粛要請は法に基づかない要請であり、国が支援するのが当たり前だ」とも言ってますが、そうなんですかね。法に基づかなくても必要なことはすぐにやるのが政治家であり、ルーチンな判断は法律でいいでしょう。国の支援は結局国民に税金問題として返って来るので、ただのええかっこしいで物を言ってほしくはないです。N弁護士のようにただの弁護士と、元国会議員であればたとえ選挙に落ちたとしても元国会議員ですから、重さが違うのです。