「貧しいことは憂うることではない。身分の上下でお互いに(気を遣い)合えば必ず心配はなくなる。心配がなくなれば身も家もひっくり返るような心配もない[1]」と孔子はおっしゃっている。小さい家であっても亭主である人は、この点を良く心得なさい。亭主も手代も自分の分限を忘れ、ただ自分の不満を感じ、派手を好むような心があるようであれば、これこそ孟子がおっしゃるように、「百の能力である者が千をとろうとして、千の能力の者が万をとろうとして力づくで自分の利益を得ようと貪り、奪えなければ延々とこのようになれば、ついには身も家も危ないことになるだろう。本心を養う時は、欲は少ない方がよい。[2]」という話がある。

まず身を修めようと思うのであれば、まずは欲を取り去るのがよい。主人が寡欲であれば部下も争いを忘れるようになるだろう。そうなれば家の中は自然と仲良くなり互いに楽になり、主人は部下に憐み深くなり、主人は真実を愛おしく思うようになる。その上欲が少なければ、家業を怠けないので銭儲けがうまくいくようになり、欲がなければ自分の見栄を張らなくてよいので、買わなければならないものは少なくなるだろう。

このように、夫婦や兄弟や部下の仲がよいので、誰も気に病むこともなく、笑う門に招かざる福もやってくる道理である。こういうことから見れば、身が修まるとき一家が安定してととのい、世間の人は家が繁盛して身体よしというのも当然であろう。


[1] おそらく『論語』の「季氏第十六」の「丘也聞、有國有家者、不患寡而患不均。不患貧而患不安。蓋均無貧。和無寡。安無傾。寡、謂民少。貧、謂財乏。均、謂各得其分。安、謂上下相安。季氏之欲取顓臾、患寡與貧耳。然是時季氏據國、而魯公無民、則不均矣。君弱臣強、亙生嫌隙、則不安矣。均則不患於貧而和。和則不患於寡而安。安則不相疑忌、而無傾覆之患。」の要約か。

[2] 出典不明

 

そもそも人には能力に差があって、どう頑張っても結果を平等にすることは無理です。

教育によって平等なスタートにできるという前提になっていることがありますが、そもそも学校の中でどんなに頑張っても成績が上がらない子もいます。これは仕方のないことです。その一方で、リーダーシップを発揮したり、交渉がうまかったり、様々あるわけです。分限=能力がそれぞれ違うのです。

その能力とやる気と合わせてもできないことがあるので、それは羨んだりするのはよろしくないよと言っているのです。

誰でもできるとか簡単にできるとか、売るために色々な甘い言葉で様々なものを政治活動含め売り込むのは、能力のない人へのいじめのように見えてしまいます。