孔子は、「まず人が普段から善をしているのか悪をしているのかをよく見て、その善をするのは、自分のためにしているのか、私欲のためにやっているのか、その上で安定して善をする心を持っているかを見なさい。そういう状態であれば、人の善は隠せないものだ。」とおっしゃっている。

孟子も、大抵善悪を区別する基準は、その人の「友人とする人または親しくする者、普段から立ち寄る場所を見て全てよければ善人である。その中に悪いものがあれば、人柄が悪い。」とおっしゃっている。これは同じ仲間を集めるからだ。

本当に恥ずかしいことである。総じて才能のある者には油断してはならない。多くは悪い方に流れる人がいる。真の善人は素直であるので、才能があってもその才能が見えにくい。

ある下男が番頭と手代に申し入れた。

「得米[1]を収納するときこれまで吟味されませんでした。我らに命令していただければ主人のために良いことになるでしょう。」

と相談したところ、詳細にその方法を申し付けた。

 


[1] 年貢を納めた後に残った米のこと。

 

今でいうと提案制度でしょうか。こういう一番下っ端が中間、上級管理職に提案するというのは、基本的には諸外国ではありえません。

特に、インドとか中南米では絶対あり得ません。上級になるほど、頭脳優秀で下っ端は馬鹿だというのが明確に線引きされます。決して本当に馬鹿だという意味ではありません。

下っ端は全体を分かってないのだから、上に提案するなんてとんでもないという雰囲気なんだそうです。だから、インドでやると下っ端の言うことを聞くのは上に立つ能力がないのだと思われてしまう一方で、中南米だと対等に扱ってくれたと大喜びするそうです。