「世の中を眺めてみると、侍である人はその所業は正しく、それだけでなく幼い時から人の道を学んでいます。農家もそれに次いで耕作を基本として利益を重視することはないので、そもそも風俗も自然と素直なのです。ただ、工商は町中に住んで多くは利益にひかれやすい。特に、商人は利益を予想して売り買いして収入にするので、道を外す人が多いのです。その上、工商は五倫を学ぶ人が少ない。だから、金銀を使いつくして生活に困ると、普段の心を取り乱してしまうものです。そういう時は何とかしようと騒いで、いろいろと策略を練り、失敗して人に損をかけて、それどころか他人のものを自分のものにしてしまおうと考え、その金で生活しようとする。これは『孟子』のいわゆる「木によって魚を求めるよりもかたし」ですよ。得られないだけでなく却って害を招くきっかけとなりますな。上手くいかないと無理に取ろうとするので害になる。普段からよく見て理解しなさい。まずは幼い子供が刃物を握るのを見て怪我をさせまいと思ってそれを取り上げようとしたら、子供は却ってそれを強く握るので大怪我をするだろう。そういう時は、子供が好きなものをわきに置いてやれば、自分から手を放すでしょう。そうすれば無難に怪我を避けられるでしょう。

これを『大学』にいわゆる「財散ずるときは民あつまり、財集まるときは却って民散ずる[1]」だ。

 


[1] 『大学』傳之三章にでてくる。

是故財聚則民散。財散則民聚。

是(こ)の故(ゆえ)に財(ざい)聚(あつま)るときは則(すなわ)ち民(たみ)散(さん)じ。財(ざい)散(さん)ずるときは則(すなわ)ち民(たみ)聚(あつま)る。

 

今も大きな問題です。戦中まではきちんと心学を教えていたのでその当時教育を受けた経験のある人が引退するまで、昭和50年代までは従業員や顧客に対しての倫理はそれなりにありました。学校の先生特に管理職の先生は、全てのことの毅然として対応していた記憶があります。

ところがGHQによって心学が一時的に禁止され、高等教育ではマルクス主義的な管理職と労働者の対立だとか、ヨーロッパ的な競争による潰しあいが当然というような教育を受けてきた団塊の世代あたりから日本企業の倫理観がおかしくなってきたように思えます。