都の南東にある宇治の里にある畳屋があった。そこの弟子の話である。十五六歳から主人について、二十三四歳になるまで滞りなく奉公した。大した悪事もなかったのだが、突然主人との行き違いから暇を出されて破れた着物で京にやってきた。こういう事情で助けて欲しいと強く頼むので、私は答えた。

「まずは仕事一つ貰うにも、着替えもなければどうしようもないだろう。用意はないのか。」

と訊くと、

「宇治に奉公に行ってから五六年つとめましたが、新しい着物は木綿の足袋五六、ふんどし四か五本、扇子五か六本、半紙を十四五帖、もちろんその他の仕着せをすべて蓄えて、一つも捨てずに持って今にいたっていますが、今回の主人との行き違いにより、いただいておりません。」と答えた。

その時感じたのだが、その男は全くそれには似つかわしくない。だか面白い男であったので、少し世話をしてやった。ある畳屋に一日百文の手間代で食事は先方持ちの条件で派遣した。

二年ばかり勤めたが、あるとき私のところに来て言った。

「私も別宅するようになりたいと思いまして、どうかお世話していただけないでしょうか。」

という。それには元手が少なければだめである。その準備はどうなっているかと訊くと、およそ銭六七十貫ほど手間銭を貯えがあるという。ならば自分で宿を借りてみることに同意した。下京あたりに家を借りて住んでいたが、そのあと妻を迎えると似たもの夫婦となって同じくらいの稼ぎである。夏の暑い盛りには、夫婦は夏かたびら一つ、うちには二人とも古木綿に襦袢に前垂れをかけて、一つのかたびらは二人が外に行くときの用意であると聞いた。

私が時々夜に行ってみると、日が暮れるとすぐに表の戸を閉めて、家の中では灯りをつけないようだった。人が来たらすぐに灯りをつけるのである。夜が暮れると体を休め、朝は夜が明ける前から仕事を始める。女房は畳をつくり、夫婦で全く油断がない。宿這入りしてから四五年してからは、その町内から百両で売り家が出た。そのとき、その男は私のところに来て言った。

「町内に売り家を買おうかと思うのですが、今少し資金が足りません。哀れだと思って少しお貸しいただけませんか。」

という。

この男は品行がよかったので、二百貫目を貸した。今年三年になり元本と利子を添えて、

「おかげさまであの家も私のものになりました。」

と、酒の肴を持ってきた。珍しく勢いのある者である。真に金を持つようになるものは、一節あるかと思う。

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大学の時の後輩に似たようなのがいました。

ある大学に行ったのですが、家庭の事情やらなんやらで大学を止めてしまい飲食店で働き始めました。しかし長年の夢であった高校教師になろうと再度別の大学に入学、修士課程まで行きました。

しかし、そう簡単に採用されない世界、結局修士を終えて一時外資系会社に入りました。英語が苦手と言っていた彼は、いきなりカナダに赴任、30歳を過ぎて結局高校教員は諦めましたが、そこからがすごかった。

カナダにいたときの人脈とを使って商売を始めました。夜の飲食店で働いていたころは本当に貧乏でしたが、今では納税者ランキングに入ってもおかしくない状態になっています。

彼も品行方正でしたね。