越後国村上の御城主である直矩公[1]の家来への御慈悲は当然、庶民平等にお助けになろうとするこころざし、民を平等にお救いしようとされるお気持ち、若い大将の立派な功績で、いわゆる正直で情け深い主君はありがたいと旧友が話していた。もっとも外は広いとはいえ、そういう話は一切聞かない。

 


[1] 松平 直矩(まつだいら なおのり寛永19年(1642)―元禄8年(1695))5歳で家督を相続したが、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年(1649年)6月9日に越後村上藩に国替となる。

成人後の寛文7年(1667年)8月19日、再び姫路に復帰した。親族の越後高田藩(藩主松平光長とは従兄弟の関係)の御家騒動(越後騒動)に際し、出雲広瀬藩主松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門の上で天和2年(1682年)2月7日に豊後日田藩に国替を命じられた。

4年後の貞享3年(1686年)7月、3万石加増の上で出羽山形藩、さらに6年後の元禄5年(1692年)7月27日には5万石加増の上で陸奥白河藩へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰したが、生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた。

 

一切聞かないなんて言うのは極端な表現ですね。今とは違って「転勤は嫌だ!」なんて言えませんから。

しかし、7回も引っ越しとなると・・・私はこれまでに10回やりましたが・・・結構金がかかります。しかも幕府の命令とは言え、幕府は一銭たりとも出しませんし、家臣団の引越しの費用とお気に入りの商人、工人も連れて行きます。今で言ったら、1回あたり数億円じゃあ済まなかったでしょう。

引越しの度に庄屋、村役人との折衝をする役職の人のストレスは、半端じゃなかったでしょう。