昔、梁の武帝[1]が仏を信じて僧尼を供養し、御堂を多く建立した。そのとき天竺のダルマがやってきた。武帝は迎え入れて慎んで申し上げた。

「私は功徳人でしょう。」

と自慢したところ、達磨は目をひそめて

「あなたの慈悲は無慈悲です。あなたの功徳は無功徳で、仏の心に叶いません。」

と笑ったという。

また、魯の文伯は、

「泥だらけになって働く民は淫らな事はしない。この土民は必ず義に向かうのだ。働くからこそである。」と言った。この意味は、沃土とは豪富が集まる町で、金持ちが多い地域は極めて財を生み出さないもの、どうしてなのか淫らな事と酒を飲みに耽るからなのだ。痩土とは貧乏な町ということで、全ての貧しいものが多くいる町は、その貧乏に苦しむ理由をよく知っているからである。他人の世話を互いに引受、義に遭わないことすることはない。これは常にその身で苦労しているので、よく理解しているという意味だ。この金言はもっともな事である。金持ちの人は内外をよく見ていないのでそうならないのだろう。

 


[1] 支那の王朝梁の皇帝(西暦464―549年)。

 

最近の寺の中には、生臭すぎてどうしようもないのもあります。本当なら僧侶は、家族も捨てて社会のために奉仕する存在なのですが、アパートを何軒も持ち、社会福祉法人を経営するだけならまだしも、補助金を受けているにもかかわらずその土地を有償で法外な値段で貸し出して、理事としての給料だけでなく、他の所得もぶんどっている生臭坊主がいます。

この坊主は更に生臭で、近所の山を切り開いて土砂を売り、木を売り、墓石屋から中間マージンを取り、揚句に寺の中でクリスマスを祝っているのです。

こういう坊主がいる寺に寄進しても、生臭坊主の夜のお遊び代に消えるだけなので、直接困っている人に出しましょう。