またある金持ちは言った。「私は金を持っているが、番頭任せの家法なので思うように金が使えません。自然と貧乏なることは十分に分かっていますが、あの米の値段は高く、また物価が上がるときは、いかにして貧乏人の苦しみや、諸色が高くなれば互いに利益の上下があるので、困窮することはないでしょう。これ一つの不審な事、僅か百目二百目の銀にせまって、溺死あるいは縊死する事もあるでしょう。どうしてわずかな金すらないというのですかねぇ。これは二つ目の不審です。」

こういうのをから見ると暖かい服や、飽きるまで食い、召使いがいて、心配事や辛いことを知らないからだ。こういう点から見れば、生まれたから暖かい服を着て、飽きるまで食べて家族に面倒見てもらって、心配事や辛いことを知らないからなのだ。だから学問をするときは身分が高いか賤しいか、金持ちか貧乏かの違いがある事を知り、人に恵んでやりすぐに救ってやる理由をよく理解しなさい。ある番頭が言ったことだが、

「我らは元の親が貧しくて奉公に出て、昔の功績で身分の高い人が世の中の事を取り計らえば、困窮する人を救ってやるべき事をよく知っている。しかし、あちらこちらから資金の提供をもと求められ、その上貧乏な人を救おうとすれば、家としてやるべき事を全てこれに打ち込んでも不足するだろう。ただ、身分が中以下の人は常に協力を頼まれることが少ないので、兎角金持ちはケチだと馬鹿にして思うのだ。その立場になって、寄付と協力に苦労するので、主人にはいちいち訊かずにこっそりと扱うのだ。だから主人はこの退園差を知らないのだ。」と言っている。

この言葉はもっともな事のように思えるが不義である。どうしようもなければこういうことを言えるものの、必ず自分の欲で金銀を惜しむことなく、内緒で妾を囲い又は遊郭で金銀を投げ打つことが多い。こういう自分の欲に使う金銀は主人の驕りを禁止させ、人をいたわり世の中を救う気持ちを持っていれば、神社仏閣数百の施主になるより、その憐れみや恵みは広大であり果てしないであろう。

 

 

私の友人で、某世界的有名な企業でお断り課長をやっていた人がいます。彼の話によると、とにかくありとあらゆるところから寄付を求められるそうです。それをいかに払えないかの理屈を考えだして、片っ端から断わるのが彼の仕事だったそうです。

そうでなくてもこの会社は、これまであっちこっちに寄付し、直接社会貢献をしていました。それでも、この会社はケチだと散々叩かれるそうです。

安田善次郎がケチだとして右翼に殺されましたが、本当は彼は陰徳善事の人なのです。