中分以上の大商人または金を貸して生活する人は、その家ごとにそれぞれの作法がある。特にこの本では財産を作るための教訓を書いているので、金持ちの慎言を論じるまではいかないが、上中下の身分を左右する入り口なので、家法を挙げて成金の心得として欲しいと思い書くことにする。全ての金持ちは、暑さ寒さに文句を言うぐらいで、金がなくて不自由して暮らしていけないなどと言うことは全く分からない。これは食料品の値段の上下、塩、味噌、薪の値段を知らないから、貧乏の苦しみを知らないのだ。だから仏教に「富貴の家鬼これを憎む」とあるのも、ただ慈悲の心がなくて貧乏人に恵む情けが少ないからであり、鬼神は常に憎んでいると昔から言われている。言うまでもなく近頃の金持ちにおいては。華美遊興を好んで驕りに長じて酒や色事に耽り、ついには部下であった番頭などに追いやられ、表向きは隠居とは言ってはいるが実際は憂き目に遭っている金持ちからの批判である。それを家法と心得て容赦なく蟄居させられるのも、金持ちの主人がする事ではない。恥ずべき事ではないのか。こういうのは教えを知らない事から起こるのだ。

孟子は、「飽食(ほうしょく)暖衣(だんい) 逸居(いっきょ)して教えざるは即ち 禽獣(きんじゅう)に近し」と言っている。貧乏者は家業が忙しく、学問をする時間がないから、五倫五常を知らない。放埓な事もあるだろう。金を持つ者は儒者に近づいて、人倫の道を知らなければならない。教えを学ぶことがなければ野獣と変わらず、山猿に冠をかぶせる喩えと同じであろう。金持ちの家に生まれた甲斐がないだろう。金持ちが言うには、金銀のおかげで、野獣だと笑っている学者もまた鬼だとこれを嫌う仏者も、寺の工事費用の寄進と節季費用のお願いも、十分に金を出していれば腰をかがめる。金銀はまさしく明徳の根本であり、須達長者[1]が金を出したのを見れば、釈迦も大功徳によって仏菩薩に生まれてくるのだろう。こういうのをみると黄金の前には、学者は知恵を論じようがないとからかう者が多い。非学者論に負けぬことわざがあるが、こういうことを話す者達は部下に押し込められる放蕩人である。こんなのは論じるまでもないが、見栄のために寺や道場に寄進して、あるいは最近ではこの大神宮のおかげ参りのときに、多くの寄進をして世間に自分の家の見栄を得るようなもので、本当に神明仏陀の御利益があるだろうか。何のためになるというのか。それよりも、普段から店に出入りする者達、または近所や掛屋敷[2]や通りの裏長屋の者には困窮している者がいる。寺に出す布施で見栄を張るようなことは止めて、そういった者達の面倒を見てやって恵んでやれば、神仏を拝まなくても自然と仏様に感じていただき守護が必ずあるだろう。

 


[1] スダッタ(須達多、須達)は、コーサラ国のシュラバスティー(舎衛城)の富豪・長者で祇園精舎を建立し寄進した。

[2] 江戸時代、他町・他国 住まいの町人所有の屋敷。

 

そうそう、成金が嫌われる理由です。本人は頑張って金を稼いで日t並み以上の生活ができるようになった。それはそれで結構な話です。

しかし、金集めに優秀なのは分かりますが、それが出来なかった人に対して露骨に嫌な顔をして追い出す、逆に大盤振る舞いを見栄で行う人、これは嫌われますよ。

これは国家にも言えて、長年貧乏だった国が金を持つようになって、他国にちょっかいを出す。こういうのは嫌われますね。

 

でも、ちょっと前までは「働いたら負け」とか「ネット乞食」なる者が出たことがありますが、あれは相手にしなくていいでしょう。助けるのは、本当に真剣に働こうとしているのに働けない人だけでいいと思います。屁理屈を言う人はほっときましょう。