職人や商人に限らず、中流以下の暮らし方はそれぞれの仕事によって、財産の貯め方には色々の方法があるだろう。大坂の堺あたりに白粉屋此兵衛という人は、若いときに白粉の小売りをしていたが、中年になって朝鮮人が来聘したときに唐焼の方法を伝授されたと言って、急に家を広げて自分で製造を始めた。唐焼伝来本製窯元御白粉処と看板を出した。移り気な土地の風習で、買いに来る人が多く日々客でいっぱいになった。店の雰囲気は明るくなり、近隣の商人はみな羨ましがった。

一人の息子がいたが、利発もので年齢は若いが商売に熱心でであったので、家督を譲り受けて自分の思い通りに暮らしていた。金持ちの友人にそそのかされて、遊郭に派手に行くようになった。他人より派手に見せようと、仲居の衣装を揃え、他の従業員に節季ごとの祝儀やまた料理人には包丁やまな板を一通りに与え、下女たちには揃いの帷子、頼みもしないのに物を買って、その他遊郭の曲やそのときどきの刷物など、御大尽と呼ばれることに喜び、同じうわべの華やかさに友が金遣いの粗さを言うと、その男は「遊所通いはみな無駄遣いだ。派手に名を売るのも白粉屋の商売、女の気を取るのが方法だ。」と分かった風な言い回しをして、舞台用の白粉や夏用の化粧を安売りを言い出して商品を大量販売するのは商売上手に見えるが、女房や娘の服装は遊女のようで、妾でも誰か囲い込んでいるのかと言わんばかりの見栄えを好んで、あるいはどこかの稲荷の狐が官上りに参詣すると聞くと自分の名前を書いた幟を贈り、辻堂に御利益があるがあるとなれば、御堂の修復を残らずやり、開帳の世話講中札[1]を先頭に立って下げて歩き、歌舞伎や芝居の顔見世には手拍して、連中などと頭巾を揃えてぴょんぴょんと跳ねて歩き、評判を気にすることなく、神前に揃える奉加帳も最初はこの人。こういうのを喜んでやる性格なので、自分の子が山車を出すときは勿論、自分が木やり歌をしたがり、その他幟や兜飾り、ひな祭りなども及ばない大飾り、数寄を求めて見物に行きたがり、どんなことでも全ての流行事をすること数年、どんなに商売が繁盛しても利益に高が知れており、以前は自分がやっていたことも今では他人がやるようになり、稼ぐよりも支出の方が多くなった。それでも勘定を考えず、手代や番頭に任せるほどの財産ではない。最近組み建てる中分以下の世帯で、収入に不相応な使い方なので年々借金が多くなり、何とかしのいでいた者の先代が隠居した父親がその商売の様子を見て、これでは財産は長く持たないだろう。数年やってきた商売も急に厳しくなってきたので、仕入れは勿論販売予想も悪く、契約した通りの貸付けも上手く行かないだろう。

 


[1] 講中札とは、頼母子講の名前を書いた札。

 

商売の基本はマメさですが、やりすぎると却って人の顰蹙を買うことになります。

金を出すなら本人は出て来ないで控えたほうがいいでしょう。金持ちが表に出てやいのやいのやると、周りの人はドン引きしてしまいます。後ろに控えてみているくらいの方がいいのです。