自分の貧乏には苦しまないのは、よほどの身分であって堪能することがあるのです。だから、孔子は彼をお誉めになり、シイタケのうつわものに一杯の食い物、瓢箪ひとつ分の飲み物、小さくてむさくるしい所に住み、世間の人ならばその貧乏に堪えられないであろう。顔回はそれを楽しんだのです。顔回は貧乏を苦にせず、人が人である道を楽しんで暮らしたのです。本当の賢者とは顔回のことだと自分の弟子ながらも大いにお誉めになったと『論語』にも出ています。これをむさくるしい生活をして清く飯を食うという諺と同じです。清く飯を食うというのは、たとえ貧乏に暮らしていても、道に外れるようなことをしなければ、祈らなくても神が守ってくれますし、必ず人が助けてくれます。食器や飲食を綺麗にする事ではないのです。貧しい暮らしというものは、着物を着なくてもおいしいものを好み、家賃や米代を払わなくても金を集めて酒を飲み食いする事を考えるのが通常である。飲食する人はこういうのを卑しまないと言い張るが、昔からあまり飲食をしたがる人を世間の人は見下げて卑しむという戒めがあります。こういう事を聞いて却ってそんなことはないと馬鹿にして、貧乏人が賢人顔すれば、ますます飢えて飢え死にするでしょう。学者のくせに借金を返さない者なのです。私は飲食するために普段の仕事をしますが、一言に言い放つ奴らは始末ということを知らない貧乏人の捨て台詞なのです。このような放言をするような者は必ずみだりに借金をして返済をしません。友人だけでなく懇意にしてもらっている人は言うまでもなく、家主、薪屋、醤油屋など僅かな借金すら払わず、払うべき期限きちんと払えば断られないのに、逆ギレして絶対に払うもんかとわめきちらし、借金でも面等向かっての借金で死刑になった事はないなんて勝手な事を言う連中が多いのです。こういうことが、自分で貧乏を引き寄せるというものです。どうにもなると義理を思って償えば、人もまた義理を思って菓子もしてくれます。分けて三ヶ津[1]などは、五節句の前日を節句と名付けて、六十日が間の貸し借りの取引をするのは貧乏人にとっては非常に助かった。百五六十年前[2]は、六十日間の掛け商いそのものがなかった。元々得意先であるということもありますが、ただ顔を知っているだけ、時々売買を現金で取引するのを得意としているのに、たまたま仲がいいからと二十日三十日待つこともある。爺様の話を聞くと、今はそれが六十日の間に掛にするようになり、借金が増えて行ったのです。三か月半年払わないが、考えがあって掛で売ってくれるのは貧乏人にとって生活しやすい世界です。これは世界が平和であるからそのお蔭で生活ができるのです。本当に有難い時代ではないですか。しかし、私の質の利上げと頼母子講[3]の掛け戻しはよほどの心配事で、夏は暑いときは裸で暮らしていても家主は叱りもしませんが、冬になって着物一枚では近所の外聞もあるのでせめて子供には着せたいもので、そういうときは身の寒さより涙する事もありました。だから、貧乏の苦にならないという事もありません。」

と長話をした。誠にこの人は昔の白箸の翁[4]というべき隠遁者で、実に正道人である。その言葉を箇条書きにした。

 


[1] 三ヶ津(さんがつ)は江戸時代に商人が他人にカネを 貸し出すとき、いったん寺社にカネを預け、そこから資金を必要とする人たちが借りる「 名目貸」のスタイルを採用し、貸し倒れを防いだ。

[2] この本が書かれたのは安永三年(1764)なので、1600年ごろ。

[3] 頼母子講は、本来は遠距離にある神社仏閣にお参りに行く集団である。そこから転じてお参りに行くための積立金を預かる団体となり、少額資金の融通を行うようになった。

[4] 『本朝神仙伝』に出て来る不思議な老人で、死んで20年後に経を読んでいる姿が目撃されたというお話。

 

 

何をするにしても可愛げというのは重要です。

 

共産主義の元祖マルクスは借金大魔王で、エンゲルスやその他にもたかって金を借りていたそうです。返す当てもないのに飲み食いに使ってたとのこと。こういう人が貧民を語るのは実に可愛げのない話です。

 

バブル期はまさにそういう人が多かったような気がします。借金して高い車を買って、見栄を張る。当人に言わせれば、ぼろい車では信用が無くなると言ってました。その人は、会社経営と言っても実質個人経営で6億円の借金を抱えていたと言ってました。

 

その後全く姿を見なくなったので・・・

 

とはいっても、都内でやたら私立小学校に行かせる親たちが多いようです。これもまた、これと似たような感じがしますね。