「こう言うのは貧乏であることの僻みから様々な悪心が出てくるのです。自分はそういう心を持つまいと心掛け、しっかりと仕事に精を出しますが、生まれついての貧乏な家、草は草の種、木は木の種と別物ですから、私のような貧乏人は金儲けは出来ないものと諦めたのは、この足るを知る者は常に富んでいると心で堪能し、貧乏で苦労が続いているように見えるのです。それにしても借金取は鬼だとはよく言ったものです。どんな立派な人であっても借金が多いときは、恐ろしげに立って家の中に入れません。借金をするときは始めは借りた時のうれしさを忘れず、寝ても覚めてもこの借金は返さなきゃならんと、しっかり仕事をして寝酒を飲んで野菜一つおかずに出すのも始末して、借金を手に入れるたことを忘れなければ、百日百倍の困窮の中にあっても、半額も返せないということはないでしょう。まさによき仲には墻[1]の喩えを忘れず、金銀を稼ぐよりも仲違いをしてしまうのが貧乏人には多いのです。だけど常に正直で物事を簡潔にまとめに油断せず精を出す人は貸す人は猶予してくれるものです。貧乏は様々な妨げになり。生まれついて良い心掛けの人が貧乏に苦しんでいれば、様々な悪い心が出るものです。その心をしっかりと戒めて、乞食や非人に生まれるよりはましだと、ただ一筋気丈に働くしかありません。貧乏で大変苦しむときは必ずろくな事を考えず喧嘩が絶えません。博打や勝負事のような天下の掟にそむいて、自分だけでなく妻子に苦労を掛けることだ。これは、聖人がいわゆる「小人窮すればここに乱する[2]」といって、心掛けが悪く卑しい者は困窮して、自分の仕事をやめて身も心も乱れて、世間に笑われる事を始めるものです。また、貧乏であっても志がいい人は、心掛けはこのようにはしません。昔に顔回という人は非常に貧乏であって、粗食で水を飲んでひじを曲げて枕にするほど貧乏でしたが、少しも悪い心を持たなかったのです。それどころか聖人の道を楽しんで、全ての人の楽しみというのは、このような事にあるのです。」

 


[1] 「親しき仲にも礼儀あり」と同じ意味

[2] 衛霊公第15に出てくる一節。困窮具合が酷くなると人は何をするか分からない事を意味している。

 

昨日の続きです。この人はパチンコにはまりギャンブル依存症になってしまったようです。

結局即日解雇になり、その人の噂はぱったり消えました。地元採用枠の人だったのと、新聞にも出てしまったのでおそらくあの土地にはもういないでしょうし、小学生の息子も指される状態になってしまったことでしょう。

思うのですが、人間本気で生きているだけで充分ギャンブルだと思うのですが、読者に皆さんはどう思いますか?