およそ4か月ぶりの更新。
となってしまいました。
でも、特に変わったことも無く。
強いて言えば、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけアウトドアになったくらい。
と言っても基本インドアな人間です。
さて。
前置きはこのくらいにして、本題。
今日は、名古屋市博物館に行って参りました。
特別展「幽霊・妖怪画大全集」がお目当て。
福岡市博物館に所蔵されている吉川観方(かんぽう)のコレクションから、屈指の絵が揃う。
(いわゆる所蔵品の貸出という形)
墨画から錦絵から。
笑う骸骨から始まり、朝露・夕霧のような幽霊画(墨画)、
歌舞伎の演目を描いた錦絵(お岩やお菊に代表される)。
妖怪画は、付喪神に始まり、百鬼夜行絵巻、酒呑童子(鬼)など。
鬼以外にも、天狗、猿、猫、狐、蛇、狢(ムジナ)、蝦蟇(ガマ)の妖怪。
さらには人間の妖怪も。(豆腐小僧やろくろ首、清姫(蛇に変化したという伝説)など。)
墨画ならではの繊細な曲線美が生み出す幽霊画から、
錦絵らしい豪快な存在感の妖怪画まで。
とはいえ墨画の妖怪画もあるし、またその逆もしかり。
自由研究で妖怪を取り上げるくらい小学校のころから好きで、
水木漫画などで空想(なかば妄想)してきた彼ら。
『妖怪大戦争』はじめ、あらゆる映像作品で動く彼らを追い続けてきたこの目で、
今一度その雄姿?を見てきたわけです。
何時間見つめても飽きない魅力。
ただ怖いだけが幽霊・妖怪じゃない。
ユーモラスな描かれ方もしていて、どこか間抜けで、それでいて美しくかつ情緒漂うもの。
考えていくと、怖いというよりも、愛らしいもの、心惹かれるものとしてそこに存在するんだなって思う。
目に見えるものしか信じない人もいれば、怪しい(妖しい)世界の追究こそ生き甲斐とする人もいる。
科学が未発達だった時代、理解しがたい現象、超常現象は、妖怪の仕業であるとされた。
今なお妖怪という存在の実証はされているわけではないが、
昔の人がおこした迷信から生まれたものとも言う。
だが、果たしてそうなのか。
森羅万象あらゆるものに神や魂、命が宿るとする考え方は古くからある。
物に命が宿ってもおかしくない、強い思いからそれに魂が生まれてもおかしくない、、、
九十九神(付喪神)の考え方である。
日本人は昔からこんなことを思ってきたのだ。
今でも、物を大事にしようとする心がある。
少しでも長持ちさせようと大切にする。
その基盤となっているのが九十九神ではないか。
幽霊・妖怪の存在自体に確証はないが、それを存在の否定がなされる証拠になるのか。
ひとつの材料であるにしても、言いきれるものではないのではないか。
元々は「妖怪」という言葉は、「怪しい奇妙な現象」を示すもので、そこから怪談、宗教云々と結びついて、
よく分からない現象を、具体的な形を持ったなにかの仕業だとし、
「怪異を起こす存在」として考えられるようになっていった。
であるからして、「妖怪」というものは存在する、と言いきるための方法は、
誰もが「怪しい、奇妙だ」と思うもの、現象を探すという道もある・・・?
どうなんでしょうね。
なんかまとまりがなくなってきた。
てか、最初からこのブログにまとまりなんてなかった。
終着点もない。
なにはともあれ(強引に締めに持っていく)、
僕はね、妖怪の存在、信じてますよ。
いていいじゃない。
いや、いるべきでもあるとさえ思えてくる瞬間もある。
日本人として、いや、人間として、心のよりどころみたいな、思いを投射する位置に、
そういうものはいるんじゃないか。
いてほしい。
よく分からない存在、現象に、それこそ“取り憑かれた”ように魅了される今日この頃。
では、この辺でお開きにしたいと思う。