『そこは暗闇の世界。一見すると何もない空間に見えるが、その中には数え切れない程の微粒子が渦巻いている。突然、そこに鬼女が生まれた。鬼女は魔力を持っており、この暗闇を宇宙と呼んで、指一本振るだけで惑星を創ると、そこを住処と決め地獄星と名付ける。次に、鬼の女は人間の男を創った。何故人間だったのか鬼女にも判らない。ただ一つ、その人間の男は、とても美しい姿をしていた……』

 体が毛布に包まっている。だが、余りに毛布が肌に食い込んでいて、自分が下着をつけてないことに気付いた。そんな毛布でさえ信用出来ない程に無防備に思える。
 少しかび臭いソファーの上で、キイノは横たわったまま、目を覚ました。
 一瞬、躊躇したが、上体を起こして周りを見る。

 テーブルとイス、窓には薄いカーテン、普通の家に違いない。
 だが、少し動けば埃がたちそうな床が、此処は林檎屋敷でも西芝の家でもないと教えている。全部が見覚えのない風景だった。
 しかし、不思議に怖いとも思わなかった。そうなのだ。
 キイノは、自分の中に鬼がいると信じている。
 だから、こんな時には、一人ではないという安心感が湧くのだ。

 窓のカーテンを閉じた隙間から日差しが紛れ込んでいる。と、そこに人影が通り過ぎた気がして、キイノは部屋の中をキョロキョロするだけで逃げる機会を失ってしまう。
 ともかく、毛布を頭から被って身を隠す術しかない。
 すると、誰かの足音が止まり入り口の戸をガチャガチャやる音がしている。
 案外、軽やかに戸が開いた。

 だが、薄暗い部屋の中からは、その人物が逆光ではっきり見えない。
 キイノは、ただ恐怖から逃れるように、じっと見つめた。眩しくて何度も瞬きしながら。
 その人物は、少し小首を傾げると持っている大きな袋をキイノの方に差し出した。

「ほら、下着と服を買ってきたよ。裸じゃあ、何処にも行けないだろ。それと、パンと飲み物も、昨夜から何も食ってないし……」
「え? あなたは誰……」

 キイノは聞き覚えのある声に少しだけ安堵するが、毛布を被ったままだ。
 その人物は、戸を閉じると、スライドするように横に動いて近付いて来る。
 すると、彼の姿がキイノの目にもはっきり見えて涙が込み上げてきた。

「やだ、こっちに来ないで……!」
「は、じゃあ、テーブルに置くから、勝手に取ればいい。俺だって、腹が減ってんだ。遠くまで、お使いに行ってきたから疲れてるし……」
「……長井、ツグオ?」
「ああ、俺は長井ツグオだよ。お前、知ってんだろ……」

 ツグオは終始低い声で、不機嫌なのか、あるいは寝不足なのか。
 小さく息を吐くと、靴を履いたまま部屋の中央にあるテーブルまで歩んでいく。
 手には袋を二つ持っており、それをテーブルに置くと、小さい袋からパンとペットボトルを取り出し、窓際まで歩き床に座り込んで食べ始めた。

 キイノは彼の姿を横目で追ううち、少し警戒心が薄れてきた。
 思い切って、毛布をはぎ、テーブルから奪うようにして、下着とワンピースを身に纏った。驚いたことに、サイズは測ったようにピッタリだ。
 しかし、下着はパンツだけ、『女子にはブラがいるって知らないのか、こいつ……』と文句を言ってやりたかったが我慢した。

 すると、突然、頭から重い物が体全体を覆うような不快感を覚える。
 自分は何故、裸のまま此処にいたのか。
 長井ツグオに尋ねるのも悍(おぞ)ましい気がする。

 あれは昨日の事だ。西芝の家にいたキイノは、夫婦の目を盗んで逃げだした。
 多分、裸足だったに違いない、足裏が地面から伝わる感触を覚えているから。
 なのに、あと少しで坂を下りると喜んだ……あの時からの記憶がない。

 それは、林檎屋敷にいた時から何度も経験していた不快な気分。夕方6時が迫ると不安になる。あの気持ちと一緒にキイノは坂を駆け下りていたのだ。
 鬼が来る、もうじき来る、坂を下りれば逃れられると、意味のない安堵感に支配されながら、キイノは不安な気持ちで駆けていた。

 この、「夕方から翌朝の6時までの記憶がない」という事実。
 翌日、目覚めた時は殆どがベッドの中なのに、それを不思議と思わせない周りの大人たちの言葉や振る舞いだったが、キイノ自身何か重大な秘密があることは薄々気付いていた。
 自分の中に鬼がいると思い始めたのは、時にして話し掛けて来る怪しげな少女の声。
 あの少女を鬼なのだと信じ込んで、全部を鬼のせいにして不安を打ち消す。
 希望するのは、ただ一つ、魔族の蓮の傍に居たい。
 その為には、不思議を不思議と思わない事だと信じていた。

「……なぁ、俺が此処にいるのを忘れちまってんのか、お前」
 突っ立ったまま、考え込んでいるキイノにツグオは苛立っていた。
 キイノはビクッとしたが、眉を上げて返した。

「あんたは嘘吐きじゃないの! 約束してたのに来なかった!」
「K高校の校長が事件起こした日の事言ってんのか、色々野暮用が重なって忘れてた訳じゃないんだ。だが、お前にはイチロがいる。もう、俺なんか必要ないだろ」
「私はずっと待ってたのよ、夕方まで……そしたらイチロ君が声を掛けて来て、林檎屋敷まで送ってくれたわ。夕方6時が近付くと具合が悪くなるってイチロ君は知ってるから……やっぱり、頼れる人は彼しかいないのかなって思った……」
「はん、雨が降った日だったよな。お前ら仲良く手繋いで歩いてた」
「あんた見てたの?」
「気を付けないと、最近じゃあ、至る処に監視カメラがあるぞ」
「イチロ君との事は、あんたには関係ないわ!」
「ふざけんな! お前らわざと喧嘩して、俺を巻き込んだ挙句、その反応を見て楽しんでるんだ。そんなのって滅茶苦茶腹立つんだよ!」
「何で、何で腹立つの?」
「……知るかっ!」

「あんたと約束なんか、もう絶対しないから!」
「は、有り難う。……しかし、摩訶不思議だよなぁ。東の空が白む頃、俺が目を覚ますと、ソファーで毛布に包まって寝てたはずの鬼がいなくなって、お前がいたんだ……」
「え、いま私が鬼だって言った?」
「いや、鬼がお前になったって言ったんだ」
「え、ふ……私は魔族よ。何も不思議じゃない!」
「あ、そうだな。けど、たまげたよ。お前の裸を目の当たりにして……」
「……やっぱり、見られたんだ。……許さない」
「大丈夫だよ。俺はゲイなんだ」
「嘘……そう言って、私を安心させたいの?」
「そうだよ、お前も早く食っちまえよ」

 腹の虫に気付いたのか、キイノはテーブルの上からパンと牛乳パックを取ると、ツグオの真ん前に立ち、突然床に座り込んで脇目も振らずに食べだした。

 ツグオは食べ終わって、背中を壁に着けたまま、眠そうに俯いている。
 キイノがふと見ると、ツグオは小首を傾げたまま目を閉じていた。
 あの初めて出会った時の、女子にオドオドした態度のツグオではない。
 いまの彼は、とても無防備に思える、小さな子供のように両手を広げて抱きしめてやりたいような、愛しさがキイノの胸を貫いた。

「……長井君、傍に行っていい?」
「いや、来るな。来るな……」

 ツグオは目を閉じたままで呟いた。
 キイノは無視して、床に尻をついたまま這って行くと、ツグオの隣に並んだ。

 どうしたら、感情を制御出来るのか、ツグオは戸惑っていた。
 ツグオは薄目を開くと、テーブルの上に丸くなって羽繕いしている、あの小さな鳥に気付いた。未だに傍を離れない、あの小さな鳥……。

《教えてくれよ。狂獄鳥。どうすればいい。こんな時にも、俺は何も出来ない。他の奴なら簡単にやれることも俺は出来ないんだ……》

 この空間が唯一の世界なら、今、二人だけの世界に決まっている。
 なのに、有り触れた言葉や行動が我慢ならない。
 こんなものではない、だから何も話さない、だから何もしない。
 それが、最大の相手への想いの証だと微かに思えた。

「ねえ、長井君、此処は誰の家なの?」
「ん、前に同居していた叔父さんの家だ……」
「……それだけ?」
「えげつない昔話だ。キイノに話しても、何の意味もない」
「そうか、あんたの世界なのね。やっぱり私には無理ね、入って行けない」
「おい、お前の頭の上に鳥が留まってる」
「え、鳥って、何処よ。何処にもいないじゃないの!」
「本当だ。やっぱり、無理だな。ククク……」
「もう、バカにしないで!」

「……それより、昨日、何があったのか聞かせてくれないか」
「うん、長井君と一緒に寄付金届けた教会覚えてるでしょ」
「ああ、あの孤児院か」
「あの事件の後、私はイチロ君と一緒に出掛けた時、あの教会に遭遇したの。驚いて、門から中を覗いてたら、建物から10歳位の少年が出て来たの」
「孤児院に子供がいても不思議じゃないが……」

「K高校でも、あの子を見たわ。教会からずっと私を追ってたらしい。あの子トーイと名乗ったわ。昨日、そのトーイと公園で出会ったのよ。でも、あれは偶然なんかじゃない。あいつ、私が一人になるのを待っていて現れたんだ……それから、あいつ強引に私の手を引いていくの。結局、坂の住宅街の天辺にある公園に連れてかれた。そこに、西芝の奥様がいたの」
「あの西芝代議士の奥様か……」

「ええ、奥様は私を行方不明のままの娘と勘違いしてるの……私は違うのに、私は魔族で蓮の妹なのに……。私は、奥様の前から逃げ出した。だけど、途中で黒い車が来て、気付いた時には西芝家の一室でベッドに横たわってたわ。あの家から人の気配は感じられなかった。だから、容易に逃げ出すことが出来たの。あそこは私の居場所じゃない。冷たい空気が一層恐怖心を覚えた。だって、林檎屋敷みたいに楽しくない、蓮とか皆がいないんだもの……何処か知らない別世界にいるようで一秒でも居たくないと思った!」
「キイノ、お前、西芝邸の部屋にいて何も感じなかったか」
「ええ、何も。長井君、もう言わないで。私が信じるものだけが真実よ」
「じゃあ、俺が見た鬼の説明は……」

「私は魔族だからって言ったでしょ……私の中に鬼がいるの。時々奇妙な少女の声が聞こえる。それに、毎日夕方六時近くになると、不安が一気に襲って来て具合が悪くなる。皆は病気だって言うけど、あれは鬼が来るからだわ……夕方六時になると、鬼が私の体を支配する。だから、私は鬼になってた!」
「キイノ、お前、蓮さんの妹の華という女の子を知ってるか?」
「……いいえ、知らない」

「華は蓮さんの妹だよ。夜、俺は寮の外で会ったし喋ったこともある。華はキイノを知ってるんだ。なのに、お前は華を知らないと言う」
「まるで、探偵みたいに私に尋問するのね。蓮の妹は私だけよ。長井君が会ったのは鬼の化身じゃないの。鬼の言う事は信じられない」

「違う。お前が鬼の中にいるんだ。奇妙な少女の声は蓮の妹の華の声だよ。普段あいつは眠ってるが、たまに目を覚まして、キイノの行動を監視してるんだ」
「え、何が言いたいの。長井君……」
「お前が真実を知りたいなら全部話してやる」
「話せばいいわ。私の気持ちは動かない!」
「……華が言ったんだ。小さい時、夕方六時ごろに林檎屋敷の門の外で可愛い女の子を見たんだって、その子が笑顔で近付いて来ると、驚いた華は思わず女の子を呑み込んじまった。どうやら魔族の女には、そんな奇行癖があるらしいな」
「ふっ、何よ、そんな話。嘘だ……」
「嘘じゃない!」

 キイノはツグオの方を向いたまま、すっくと立ちあがると、二三歩後ずさりする。
 そして、体の力が抜けたように両腕をだらりと落として、顎を上げ小さく口を開いた。
 ふっと息を吐きだそうとした瞬間、ツグオの体がキイノの全てを包み込んだ。
 ツグオの長い黒髪に邪魔されたのかキイノは口を閉じて瞳だけは涙を零している。
 本当は大声で泣き叫びたかったが阻止されたのだ。
 部屋の中で、立ったままの二人。
 ツグオは今にも崩れそうなキイノの体を全身で包み込んでいる。

「ううう……長井く、ん、私はどうすればいいの?」
「お前は俺が守ってやる……」
「うっ……あんたが、そんな事をしてくれる理由が見当たらない」
「理由ならあるさ。お前が大事だからだ。大事な物は守りたいって思うのは当然だろ」
「……あんた、私が好きなの?」
「は……ぃ」
「聞こえない……」
「ふ、こうしてても、心はイチロだよな。俺はお前らに遊ばれてる」
「イチロ君とは友達よ。キスはしたけど、それ以上は出来ないの。たぶん鬼のせいね。ホテルの部屋に入っても拒絶反応で逃げ出してしまうんだ……」
「ホテルに行ったのか、それ本物だな。友達じゃねぇじゃん」
「嫉妬してる……?」
「は、俺はお前の犬になる事にする……」
「番犬かぃ……」
「……野良犬だよ。だが、お前の為なら何でもやる」
「じゃあ、いますぐ私の涙をとめてくれぃ……」
「はぃ……」

 ツグオはキイノの体から一歩離れると、自分の顔を近付けて彼女の頬の涙をぺろぺろと舐め始めた。まるで犬のように。突然の事にキイノは驚いたが彼の生暖かい舌の感触が次第に気持ち良くなってきて、とうとう堪え切れずに笑い出した。