4日前に突然、書留がやってきました。宛名が立派な筆書きでどなたからかと思いましたら、以前富山県の福光という所で行われていた歌の講座に参加した時にお会いした方でした。

日本歌曲の講座でお世話になっている先生に師事されているので、その後のコンサートでもお顔を拝見しておりました。

あまり、その後お話をしていなかったのですが、横浜みなとみらいホールでのコンサートでしたので、チケットを送ってこられたのです。

実はこのコンサートのお知らせは他の方からもいただいていたのですが、この日は《マタイ受難曲》のオーケストラ合わせの日でしたし、近頃、毎日出かける予定が詰まっていたので、失礼するつもりだったのです。

しかしこの書留郵便には「行かねばならないかな………」と思わせるものがありました。マチネのコンサートなので、終わってから《マタイ受難曲》の練習に間に合う時間でしたので、お昼までに、明日のレッスン曲とマタイ受難曲の練習をして出かけました。

今、自分の発声が気になっているもので、コンサートを聴いてもそういった方面からどうしても聴いてしまいます。

 

このコンサートの会は、指導の先生が自分でもお歌いになりますし、ピアノ伴奏者としても活躍され、日本歌曲の演奏に関して第一人者でいらっしゃいますので、どちらかと言えば、このコンサートは、歌の方と、伴奏者の組み合わせを聴くような感じなのです。

そういった観点で聴くと、そのアンサンブルの妙味のようなものがよくわかるのです。

例えば前奏の部分でその曲の情景が浮かんでくるように、上手に弾かれていたのに、歌が入るとその情景が浮かばなくなってしまうように思う曲がありました。

聴いていて、「歌の方はピアノ伴奏の方が作ってくださった世界を感じていらっしゃらないのかなあ」となんとなく感じてしまいました。

別に、歌いかたがおかしいとか、ピアノが先走っているとかではなく、なんとなくその表現がお互いの中で了解されていないのかな……と感じてしまったのです。

なんだかそに前奏が素敵な世界を作っていらっしゃったので、残念な気持ちがしたのです。

その歌は私も歌ったことがあるので、ちょっと思い入れがあるのかもしれません。

 

もう一つは、曲はとても素敵な曲だったのですが、あまり歌い方にも、音色にも、言葉にも変化が感じられず、リズムや、伴奏の音とのハーモニーも素敵にできていて、それを生かすように歌うことができれば、この歌の価値が全然違ったものになるような気がするのに………

確か1ヶ月ほど前にも、この組み合わせでお聴きしたように思うのですが、なんだか聴いているものにアピールしてくるものがないのです。

はっきりいうと、どんな歌だったか覚えていないのです。

印象に残る何かが無いのです。

他人のことですと、好きなことを言ってしまいますが、この言葉は自分にも帰ってくるものです。

引き続き高音に至る声の出し方について、いっぱいいっぱいではなく、日本歌曲であっても豊かに、余裕のある声で歌われるとその歌の内容に耳が反応できるのですが、声の出し方にかなり無理があると、そういう部分が気になってしまうのです。

やはりこれは、細かい視点と同時に声の色や、言葉にふさわしい歌い方やニュアンスを使い分けることができる技術がいるのですよね………

今、私が歌うことができるように勉強していることは、ここにも応用できるのではないかなと思うのです。

歌が持っている価値が正しく、しかも興味を持って聴いていただけるように、演奏するためには色々学ばねばならないのですね。