枇杷の大きな木に実がたくさんなっています。
木も二階にとどく高さで、とても大きな木です。
今まで何気無く見ていたと思うのですが、
「大きな枇杷の木だなあ」と感じたのは初めてでした。
意識して見ていない時には、それはそこに存在していないのと同じです。
しかし、いつも目にしていると、
何かのきっかけでその存在が大きくクローズアップされる時がくるのです。
(必ずとは言えませんが。)
本日の枇杷の木は、頭の中の映像に 片岡 珠子 の「枇杷」という絵が浮かんだことによる再認識でした。
昨年の5月に 東京国立近代美術館で開かれていた 片岡 珠子 展でみた 「枇杷」という絵を思い出したのです。
それまで 「下手くそな絵だ 落選の神様」と言われ、帝展に落ち続け、ばかにされていた 珠子さんが 初めて院展に入選した絵だったと思います。
生誕110周年の展覧会の初めに飾られていた 絵。
爽やかな初夏の空気感と、柔らかな感じの色遣い、構図だったと思います。
肉厚な枇杷の葉に 、枇杷の実、よく見ると、枝には小さなカタツムリが乗っていました。
(よく見ないとまたこれも見えてきません)
時代が経つと、彼女の「絵」は力強い線、強烈な色彩、迫力のある画面がかなりめだつようになりますが、
「枇杷 」はまだ、初期の作品ですので、初々しい匂いに満ちた 「絵」 です。
,
枇杷の木の実と、その葉を見て何故だか片岡 珠子さんの「絵」を思い出したのです。
「ああ、 枇杷の木だ!」
その途端に私の中で枇杷の木は、しっかりとした存在になりました。
木も二階にとどく高さで、とても大きな木です。
今まで何気無く見ていたと思うのですが、
「大きな枇杷の木だなあ」と感じたのは初めてでした。
意識して見ていない時には、それはそこに存在していないのと同じです。
しかし、いつも目にしていると、
何かのきっかけでその存在が大きくクローズアップされる時がくるのです。
(必ずとは言えませんが。)
本日の枇杷の木は、頭の中の映像に 片岡 珠子 の「枇杷」という絵が浮かんだことによる再認識でした。
昨年の5月に 東京国立近代美術館で開かれていた 片岡 珠子 展でみた 「枇杷」という絵を思い出したのです。
それまで 「下手くそな絵だ 落選の神様」と言われ、帝展に落ち続け、ばかにされていた 珠子さんが 初めて院展に入選した絵だったと思います。
生誕110周年の展覧会の初めに飾られていた 絵。
爽やかな初夏の空気感と、柔らかな感じの色遣い、構図だったと思います。
肉厚な枇杷の葉に 、枇杷の実、よく見ると、枝には小さなカタツムリが乗っていました。
(よく見ないとまたこれも見えてきません)
時代が経つと、彼女の「絵」は力強い線、強烈な色彩、迫力のある画面がかなりめだつようになりますが、
「枇杷 」はまだ、初期の作品ですので、初々しい匂いに満ちた 「絵」 です。
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枇杷の木の実と、その葉を見て何故だか片岡 珠子さんの「絵」を思い出したのです。
「ああ、 枇杷の木だ!」
その途端に私の中で枇杷の木は、しっかりとした存在になりました。