音楽ライターの高橋美穂さんにインタビューをしていただいた。
高橋さんは僕がライブを撮り始めた頃には、僕の周りのバンド達と沢山の関わりを持っていて、
初めて直接接触したのは高橋さんがROCKIN'ON JAPAN誌面で連載をされていた
「高橋美穂の激汗モッシュピット」というコーナーで、
FUCK YOU HEROESとELECTRIC SUMMERの対談記事用にと、
RetromaniAがレコーディングしていた下北沢のレコーディングスタジオの外で写真を撮っていたのを見かけたのが最初だったと思う。
初めてちゃんとお話した時の事はハッキリと覚えてはいないが、僕がいつも撮影していたバンドのそばにいらっしゃるイメージで、
NOBのあの事故の翌日、2004年6月11日に渋谷AXにて行われたHAWAIIAN6のライブレポートをされていたのも高橋さんだった。
事故の翌日、抜け殻というか何も考えられなくて、
友達に「行こうよ!」って言われたけど行くに行けなかったその日のライブのレポートに、
「避けては通れないから書くけど」と、NOBの事故と結びつけてレポートが書かれていたのを後日JAPANの誌面で見て、
なんだか…HAWAIIAN6のライブには行けなかったし見れなかったけど、
そこに行ったかのような気持ちになったのを覚えている。
それは、たぶん同じ気持ちを持った人が同じ気持ちでそのライブを見てレポートを書いてくれていたからだと思う。
ちょっと語弊があるかも知れないけど、なんだか、嬉しかった。
時は経ち、昨年の京都大作戦のバックヤードで立ち話をさせていただいた。
話の内容は「写真集を作りたい」。その内容だけで気がついたら30分以上立ち話をしていた。
気づいたら京都大作戦名物のラジオ体操が始まり、ライブレポートでいらっしゃっていた高橋さんだったので、
話は強制終了となってしまったが、凄く沢山の内容を話し、的確なアドバイスをくださったことを覚えている。
その時にお話した中の一つが「インタビュー」だった。そんな経緯もあり、インタビューをしていただくに至ったのです。
インタビュー、なんか偉そうなクチ叩いてますが、ご愛嬌ということでお許しいただけたら幸いです(汗)
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――まず、半ちゃんが興味を持ち始めたのは、音楽が先? カメラが先?
「カメラの方が全然先ですね。少年サンデーに連載されていた『ファントム無頼』っていう航空自衛隊の漫画があって。
僕、出身が静岡で、基地があるんですけど、それを漫画で知ったんですよ。
そうなんだ、ほんとかな? って、タウンページを捲ったら本当にあって。ネットとかもない時代ですからね(笑)。
そこに書いてあった住所に、来年のエアショーはいつあるんですか?っていう問い合わせを、
気を利かせて往復はがきで送ったんです。
そうしたら、こないだ『空飛ぶ広報室』っていうドラマがありましたけど、その舞台でもあった自衛隊の広報班の人が、キッズがいるぞっていうことで、
返信用のはがきを使わずに、いろんなパンフレットを沢山送ってきてくれて。
エアショーも、来年5月の月末くらいにあるよって教えてくれたんです。それが小4だったのかな?だから、初めてエアショーに行ったのが、小5の5月。
それを、家にあったコンパクトカメラと、会場で売ってた写ルンです(インスタントカメラ)でパチパチ撮ったのが、僕のカメラマンとしての大元なんです。
だから、根本は飛行機が好きで、カメラはその場を切り取って持って帰れる楽しさではじめたっていう。
ただ、そうやって撮った写真って、飛行機が米粒みたいなんですよね。それでも満足していたんですけど、やっぱちっちゃいなって思って。
大きい写真はどうやって撮るんだろう?と。
音楽雑誌があるように、飛行機雑誌ってあるんですけど、『航空ファン』っていうのには、でっかく写っているんですよ。
それには一眼レフが必要だっていうことを知って、親に、『貯金してあるお年玉を全部出してくれ』って言って。
でも、中古のカメラ屋さんなんて洒落たものは、僕の田舎にはなかったので、質屋に行って、『良いカメラないですか?』って言ったら、
『新古品があるよ』と。それを4万5千円で買ったんです。
中学生になっても、それでいろいろ撮っていて。基本は飛行機だったんですけど、電車も撮ったし、風景も撮っていました」
――飛行機と写真への興味が結びついたのは、何故だったんでしょうね。パイロットとか、自衛隊員とか、空港で働くとか、いろんな夢を抱けそうなものなのに。
「まず、パイロットを諦めたのは、当時僕が肥満児だったからなんですよ。運動が嫌いで。
遡ると、小学校2年生の夏休みに、チャリでこけて、足の骨を折って、その夏をまるっと家で過ごしたんです。
それでえらい太って。それまでは足も早かったのに、クラスでドンケツになっちゃって。
あと、近眼だったんですよね。当時は1.5か2.0以上はないとなれなかったと思うんですよね。
今はコンタクトとかで矯正すれば大丈夫になりましたけど。だから、パイロットはなれないと。
だから、機材とかを触るのが好き。そこでカメラに落ち着いたのかな」
――なるほどね。音楽への目覚めは、その後ですか?
「いや、一応小さい頃から音楽にも興味はあったんですよ。ばあちゃんの部屋に、昭和歌謡の年号別のヒットチャートが入っているアルバムがあって、それで好きになったような感じでしたけど。
中学生になって、親父がパチンコでCDをもらってきて、それが『ダンスマニア』とか、『スーパーユーロビート』とかで。
親父は電気工だったからか、エレクトロミュージックに興味があったらしくて(笑)。
その頃、よく図書館にいっていたんです。
そこで、自衛隊の基地に手紙を送ったら、いろいろくれるぞと味を占めていたから(笑)、図書館で各地の基地の住所を調べて手紙を送っていたんです。
そうすると、返信はがきに手書きで丁寧に返してくれる人もいれば、たくさんパンフレットをくれる人もいて。
あと、図書館にはCDもあるんですよね。
中2の時に、オンタイムで『エヴァンゲリオン』が流行って、『エヴァンゲリオン』といえばBGMがクラシックなんですよね。
そこで『第九』のCDを借りて、長ぇなって思いながら、1曲丸々展開を覚えるくらい聴いたり、あとさだまさしのライヴ盤を聴いたり。
93年くらいに出たやつで、MCがほぼノーカットだったんでCD3枚組で、その最後で『今これを聴いているあなた、今は何年ですか? さだは元気ですか?』って語り掛けていて、ああCDって素敵だなって思ったんですよね。
そんなこんなで中3になった頃には、サッカー部の悪い奴らがハイスタやCOCOBATを聴き始めて。
ただパンクは悪い奴らの聴く音楽ってイメージで、僕はユーロビートとか民謡とか聴いてて、そんなんだったんで、中学の時はそんなにバンドの音楽に触れず、高校に入ったんです。
中学の時点で、写真の専門学校に行きたいとは思っていて、親にも言っていたんですよ。だから、高校って僕の中でどうでもよかったんです。
取り敢えず出て、専門学校に行ければいいやと。それで、偏差値もそれほど高くなく、進学校でもない、共学の高校があって。
学校に行っていて、バイトは厳禁だったんですけど、場所が離れた回転寿司屋でこっそりバイトしていて。
その最初の給料でギターを買ったんです。ちょうどL'Arc~en~Cielが『ark』と『ray』を出した頃。
その頃には既にハイスタもバリバリ聴いていました。
バイトもし始めたので、ぽっちゃり体型でもなくなって、アングラな人間からなんとなく真っ当な人間になったんですよね(笑)。
それでギターを買って、コピーしたりして、バンドやパンクに目覚めて。
それで高3の時に、2001年だったんで『AIR JAM 2000』のビデオを擦り切れるくらい見てたりなんかして。
99年~00年って、ロックが凄く盛り上がっていたと思うんですよ。ミッシェルもいたし、ブランキーの解散があったり。
うちの家はWOWOWに入ったんで、それでフジロックを見れたりして。自分の足でライヴハウスへは全然行けてなかったんですけどね。
静岡にあるライヴハウスを全然知らなかったし、行き方もわからなかった。
高校生の時に行ったのは、eastern youthの静岡Sunash。『感受性応答セヨ』が出た時。
あと、ミッシェルの『ロデオ・タンデム・ビート・スぺクター』が出た時の浜松。
あのツアーって2か所だけ座席ありで、それが鎌倉と浜松だったんです。
一緒に行った友達の田村くんは、音がデカ過ぎて耳鳴りする、って言って、次の日学校を休んでいました(笑)」
――自分のライヴはやらなかったんですか?
「高3の時にバンドをやろうと思って。ハマる奴はハマっていたし、メシを食っている時にも、シャカラビ、ハイスタが流れるような学校だったんです。
だから文化祭も盛り上がるんですけど。当時はDragon Ashの『Viva La Revolution』を聴いていて。
わかりやすいんですけど、僕が初めて買ったギターは、Kjが使っていたような赤のストラトなんです。
フェンダーは買えないからヤマハでそれっぽいのを買って、地元のSTUSSYとか扱っている店でステッカーをもらってべたべた貼って。
それで、文化祭でバンドをやるってなった時に、メンバーが3人いたんですけど、一ヶ月くらい前に、まずドラムが難しいって言って辞めて。えー!?って。
でも、ベースがちょっとインテリな奴で、ドラムは打ち込みでやろうと。そうしたら、そいつも1週間くらい前に、ベースが難しいって言って辞めたんですよ。
緩い学校でも厳しい先生はいて、そもそもロック=悪みたいなイメージだから、そんな先生が学園祭の担当をしていて、
『半田お前一人でもやるのか?』って言われて、ナメんなこの野郎と思って、『やります』と。
まず、僕の前にモンパチやハイスタのコピバンが出ていて、終わって、幕が開いた時に、僕が一人だったから『え!?』って聞こえたんですよね(笑)。
で、エレキで“HOT CAKE”を弾き語りして(笑)。
終わった後に、『コミックバンド面白かった!』って言われて、いや先生それは違うよと(苦笑)。
でも、『あの曲知ってるよ、良かった!』って言ってくれる熱い奴もいたりして」
――そうやって青春を謳歌しつつも、写真の専門学校に行きたいっていう気持ちはブレなかったんですね。
「ブレなかったですね。ただ、高校を出て、専門学校入りました、上京しました、で、僕の中では終わっちゃったんですよ。バンドは趣味だし、ギターも趣味だし」
――カメラマンになりたいとは思っていなかったんですか?
「なかったんですよ。それで、さあどうしようか、ってなって。
それで、何で出会ったのか覚えていないんですけど、ESPの専門学校のマネジメント科で学んでいる子と知り合いになって、
そこで教材にもなっているサガチェンジャーっていうバンドを撮りに来る?って言われたのが最初で。もう解散しちゃいましたけど。
そこで教材にもなっているサガチェンジャーっていうバンドを撮りに来る?って言われたのが最初で。もう解散しちゃいましたけど。
また、これまた出会いがあって、専門学校で、あいうえお順で並んでいたんですけど、1個前の席の広瀬っていう女の子が、パンクが好きだ、バンドが好きだと。その子にお薦めって言われたのが、HAWAIIAN6だったんです。
2002年の8月くらいだったから、『SOULS』が出た頃ですね。しかも、プロデューサーはハイスタの健さんじゃないかと。
そこで、当時いわゆるACB系って言われていたバンドの方に一歩踏み入れた感じです。
それで、2003年の1月に『WHAT’S GOING ON』っていう企画が、原宿アストロホールであって。
ハワイアン、ファッキュー、ジュニモン、fOUL、REACH、smorgasとかが出ていて。そこで初めてハワイアンのライヴを見たんですよ。
そこでファッキューとも出会って。速いうるさいカッコいい、みたいな。
ああいうハードコアには出会っていなかったので、カッコいいな!って思って、物販に行って、『デモテープ下さい』って言ったら、『今日は売れちゃったんだよ、またライヴ来てよ』ってフライヤーもらって。
それで5月くらいにACBのライヴに行って、物販全部くれって言って(笑)。
そこで、チケットを買ってライヴは行っていたんですけど、『写真撮らせて下さい』ってお願いしてライヴ写真を撮り始めたんですね。
パスを出してもらうなんて、ずっと後の話です。
パスを出してもらうなんて、ずっと後の話です。
当時は白黒で撮っていて、学校で紙焼きとかもできたんで。そんな中で出会ったのがDOLCEで。夏休みだったんで、ツアーを全部付いて廻ったりもしましたね、12本。そのツアーにバンアパもいて、NOBもいて、HOLSTEINもいて」
――お客さんでいるだけではなく、撮り始めたのは何故だったんでしょう。
「この人たちの音楽好きだな、俺カメラ持ってる、じゃあ撮らして下さいっていう。そこで、写真と音楽の比率が逆転したっていうか」
――ライヴカメラマンになりたいとは思っていたんですか?
「ゼロですね。これで食っていこうっていう意識はなかったですね。そこがなかったから、ここまでやってこれたのかもしれない。
お金にしたい、こうなりたいっていうプレッシャーが、僕にはなかったんですよ。
ライフワークっていう言い方は、僕はそんなに好きじゃないんですけど、これがやりたいから生きているというか……っていうか、そこまで考えていなかったので。
好きな人たちが撮れて、良かったな、ぐらいな。ファッキューの1stアルバムが出た時に、何枚か写真を使ってもらえたりしていたし」
――中学生の頃から写真をはじめてたのも、大きかったのかな。
「それは大きかったかもしれないですね。2004年の春に写真の専門学校を卒業したんですけど、
卒業生の進路って写真スタジオでカメラマンのためにライティングするようなスタジオマンっていう職業や、当時はフィルム全盛だったんでラボ、
あとはフリーのカメラマンっていう3種類ぐらいで。
ゼミの一番最後の授業で、僕の隣に先生がいて、ぐるっと輪になって、改めてこれからどうするかを一人づつ言っていって、
俺の隣までは、『スタジオマンになる』とか、『ラボで働く』って言っていって、俺の順番は最後だったんですね。
そこで『バンドの写真を撮り続けます』って言ったんです。
ゼミは20人くらいいたんですけど、めっちゃプレッシャーじゃないですか。俺の前まで確実な就職をするって言っているのに、俺ちゃらんぽらんなんじゃねぇかっていう(笑)。
そうしたら、先生が、『こいつ以外は写真全員撮らなくなるぞ』って言って。『えー!なんかすみません』って思いつつも、『あ、正しいんだ……なぁ』って。
何が成功かはわからないし、撮って金をもらえるのが成功だと思うけれど、そうじゃなくても正解って言われた感じがしたんですよね。
そして専門学校卒業してからすぐにあったのが、NOBの『COLORS』のツアーで。
5月1日からはじまって、それで6月10日があって……衝撃的でしたね。僕の人生で一番衝撃的な出来事でしたね」
――既に仲は良かったんですか?
「そうですね。2003年にTIGHT NIGHTをやった頃に、鎌田くんに、『パス出すから撮りに来て』って言われたり、甲府のカズーホールに電車で行って撮りにいったり。
『COLORS』の初日の写真は、GBEVに使われたりしたんですよ。そのツアーも、次の日熊谷、横浜、静岡って4連チャンで、全部行ったんですよ。
それで別れて、僕も、中野のカメラ屋さんでバイトしながら写真を撮っていて。
6月になってからも水戸と柏に撮りに行って。水戸の時にバンアパ企画だったんです、確か。
NOBとビークルとバンアパが出ていて。それまでビークルをちゃんと聴いたことはなかったんですけど、カッコいいなって思って。
NOBのメンバーもアガってるんですよ。
鎌田くんが『いいね、あの“DIY!DIY!”って曲』って、そうしたら、ギターのテツヤくんが『ちげーよ! “BE MY WIFE”だよ!』って(笑)。
それが印象的で。
その日ライヴ後に当時住んでいた葛飾まで送ってもらって、次の日は柏に行って撮って、またねーなんて言って電車で帰ってきて。
柏の帰りに駅近くのTSUTAYAでビークルの『BEST CRUSADERS』を借りて……その返却期限にもならないうちに事故だったんですよね。
あんなことを言って笑っていたのに、って。訃報はカメラ屋でバイトしてる時に聞いて、いろんな人から連絡来るし、え、何!?って。
お金も当時はそんななかったけれど、ちょうど専門学校の教材として買わされた三脚があって、ツアー行く資金の為に売り払ってたんですよ。
そのお金があるうちに事故があったから、お葬式には行けたんです」
――そこで、改めて写真の重要性を感じたんじゃないですか?
「そうですね。残すことの残酷さと大切さを、この上ないほどの事実で突き付けられたというか……写真ってそういうことだって改めて教えられた気がしましたね」
――写真集にNOBを掲載するのは、自分にとっても大切なバンドだし、今や知らない子にも、こんなに素晴らしいバンドがいたんだって教えてあげたい気持ちもあるんですか?
「そうですね。解散はしていないんですよ、NOBって。解散しているバンドは載せられないですけど、解散していないし、カッコいい写真もあるし、紙焼きとして手元に置いて欲しいと思って」
――あ、解散したバンドを載せないっていうのは、決めていたんですか?
「そうなんです。GENERAL HEAD MOUNTAINは載っていないけれど、JELLYFiSH FLOWER'Sは載せていて。
JELLYFiSH FLOWER'Sになってから2回しか撮っていないんですけど、ヴォーカルの松尾は同い年だし、歌も好きなので、写真で彼らの雰囲気を紹介したい気持ちがあるんですよね。
写真展をやった時にも、MY WAY MY LOVEっていうバンドを飾ったら、『写真カッコよかったんで、音源を聴いてみたくなりました!』って言われて、そういうアプローチもあるんだな、って思えて。
紹介っていうと上からみたいですけど、こんなカッコいい人たちもいるよ!っていう」
――掲載バンドは、実はジャンルも世代も幅広いですよね。
「そうですね(笑)。これが、僕の根本なんですよね。『ダンスマニア』を聴いて、さだまさしを聴いて、『第九』を聴いて、ハイスタ聴いて、ミッシェルを聴いて、こうなったっていうか。ジャンルは“音楽”です、みたいな」
――じゃあ、掲載の基準は、解散していなくて……。
「普段から撮ってて、解散していなくて、カッコいいバンド。シンプルに、それだけ。
北海道のSNATCHやNO HITTERはカッコいい写真は撮れているし、
弘前のS.P.N. POWERは、八食に来ている人は知っているバンドだろうけれど、僕は大好きで。
弘前のS.P.N. POWERは、八食に来ている人は知っているバンドだろうけれど、僕は大好きで。
他のバンドに、俺らだって普段撮ってくれてるじゃん!って言われると難しいところなんですけど、
撮っている回数だったら、くるりだって、ホルモンと一緒に回った時の写真だし。
その写真がジャングルライフに載ったんですけど、凄く小さくて、せっかくああいうことをやったのに勿体ないと思って、ぜひ大きく載せたいって言ったらOKいただけて。
ねごとも2回しか撮ったことないですけど、、彼女たちの出す音や音楽が好きで、載せたいって言って。
いい写真を撮れているっていうことは、いい音を出しているっていうことだと思うので。
OVER ARM THROWベースの洋平さんに、『半田がライヴ中にカメラを除いていないライヴは、俺らのライヴが良くない時だ』って言われて(苦笑)。
そんな事ないと思うんですけど(笑)」
――バンドマンの判断基準にもなっているくらい、信頼されているんですね。
「かもしれないですけどねえ。カメラマンだったら、常にカメラを覗いておけよって思いますけどね(苦笑)。
そういうタイミングがあったらしくって。僕、言ってしまえば写真を撮る行為よりも音楽そのものの方が好きなので、
客観的というか、お客さん目線で、いい音でてるならそっち見る=撮りたくなるっていう感じかもしれないですね。
中途半端って言われればそうかもしれないですけど(笑)」
中途半端って言われればそうかもしれないですけど(笑)」
――バンドとの出会い方も、今やいろいろっていう感じ?
「ほんと、いろいろですね。ホルモンも、『恋のメガラバ』のツアーの時に、OVER ARM THROWが一緒に廻ることになって、
しみゆう(ホルモンスタッフ)さんに似ているとメンバーにイジられたりして(笑)。
札幌、旭川、北見、帯広を廻って、札幌が最初で、残りの三か所を撮らしてもらったんですよね」
――そこから、スタッフになるのはいつ頃なんですか?
「そのツアーのファイナルのAXもOVER ARM THROWが対バンで、撮りに行ったんですけど、
その縁もあって、何度か自分から撮らせて欲しいって言ったりして、
その縁もあって、何度か自分から撮らせて欲しいって言ったりして、
アンドリューW.K.のオープニングアクトとか、『ぶっ生き返す』のツアーも結構行ったんですよ。そうしたらバンドスコアに使ってもらえたりして。
そのうち『爪爪爪』のツアーの時に、ZEPP SAPPOROの楽屋で亮君とホルモンスタッフが、
ホームページを更新するスタッフが抜けるって話していて。
誰かホルモンを知っていて、ある程度パソコンに詳しい人いないかな……あ、いた!っていう感じで、『スタッフやる?』ってその場で言われて。
その時、既にカメラ屋さんのバイトは辞めていて、横浜で風俗嬢の写真を昼から夜まで撮って、その後朝まで野毛のカラオケ屋でバイト、っていう生活をしていたんです。
風俗嬢のカメラマンの方で切られそうになったタイミングだったんで、ホルモンからのオファーは断る理由もなくて。それが2008年かな?
ヨーロッパツアーに自費で行こうとしていたんだけど、スタッフとして行くことになって。
そこからスタッフもやりつつカメラマンもやりつつ」
――他のバンドを撮りに行く機会が減ったりしませんでした?
「大丈夫でしたね。ミミカジル(ホルモン事務所)に入る時に、ホルモンの写真もお願いするけど、他のバンドを撮りに行ってもいいって言われていたし。
お陰様でいろんな現場にも行けたし、海外にも行けたし、いろんなスタッフと顔見知りになれたし。
あと、僕、ギターキッズなんで、いろんな機材が見れて楽しかったですね。現場の仕事も学べたなあ。
まあ、奥までというよりは、バンドのアウトプット担当でしたけど。物販とかもやりましたし。
――そんなミミカジルを辞めた理由っていうのは?
「まぁ……いろいろありました(笑)。ホルモンの仕事も忙しかったんで、辞めるまでは半年以上かかりましたけど」
――そこから、カメラマンの道一本にして、歩きだしたんですね。
「でも、やってきたことって変わっていなくて。ホルモンのスタッフの時も、自分の中では、ミミカジルの半ちゃんと、カメラマンのH.and.Aはなんとなく棲み分けしていたんですよね。
自分にとってもホルモンにとっても良くないって思っていたので。『カメラマンがスタッフやってるんだ』も、『スタッフがカメラマンやってるんだ』も、どっちもいいイメージがないなぁと思って。
だから2012年になった時に、自分を上げていかなければいけないと、撮れる時に撮れて、やれる時にやれて、ちゃんと感じとれる人にならなきゃいけないと改めて思いましたね。
2011年の写真展の売り上げは被災地に届けたり、2012年の写真展の売上は東北ライヴハウス大作戦に届けたり」
――そういう中で、三吉ツカサさん率いるShowcase managementに所属した理由は?
「そもそも『Showcase』っていう写真集の存在は専門学校に行っていた時から知っていたし、その後ロッキング・オンからBRAHMANの写真集が出たじゃないですか。
それも買ったし、そういう人がいるんだなあっていうのは知っていて。
POWERSTOCKのZEPP SAPPOROへホルモンを撮りに行ったとき、打ち上げで、ベロベロのツカサさんが来て、ホルモンのメンバーと話していて、
半ちゃんおいで、ツカサさんだよって紹介されて。ツカサさん、『強い写真が欲しかったら俺に言って下さい!』って言っていたんですよ、ホルモンメンバーに(笑)。
それをがっつり言える人って凄いなって思ってて。
写真展にも来てくれて、『Showcase一緒にやろうよ』って会うたびに言ってくれるようになったのが1年半くらい前かな。
でも、『自分がもうちょっと上がってからですね~』なんて言っていたんです。
ずっと口説かれてる内にShowcase所属への決め手になったのは、WEBじゃなくて紙への拘りというか。ライヴ写真ってライヴレポート用に撮ってるんでしょ、っていうのって価値が軽いっていうか。
そうじゃないんだよねって力強く言える人たちだと思ったんですよ。
ツカサさんの写真を見ていると、ライヴ写真でもアートだと思えるし、そういう話はしなくても伝わってきて、そこが魅力的でしたね。
まあ、そこは推し過ぎても難しいけど、バランスを取れる人だと思ったんで、一緒にやりたいなって思いまして」
――この写真集を出す理由にも繋がってきますけど、プリントした写真の魅力とは?
「ゆっくり見れるところじゃないですかね。物理的に言うと、パソコンで見るのと紙焼きで見るのとは、微細度が違うんですよね。
パソコンの画面で表示できる細かいところって限界があるから。紙には倍以上の情報が詰められる。首の下の汗のグラデーションや、目の輝きは紙の方が出るし。
そこから何を伝えたいのかっていうと、万人に伝わるかはわからないですし、読み取ろうとしないと伝わらないかもしれないですけど、何でここに汗をかいているのか、何でこういう目をしているのかって、紙の方がじっくり見れる気がするんです。
そもそも写真の力って、中途半端なんですよ。ムービーは、30分あれば、30分の出来事を全て見せて、説明してくれるんです。写真は、一枚コンマ何秒の世界を切り取って見せる。それって説明不足でしょう。
でも、30分をコンマ何秒分の一枚に凝縮する作業ってカメラマンとしての腕が試されるし、どう受け手に伝えるかっていう意思も込められる。
それは難しいですけど楽しさもあるし。訴えかけている以上、読み取っては欲しいんですよ。
でも、100人いれば100の捉え方があって、きっとそれが写真の楽しさだと思うんですよね。
あれ、何でこうなっているんだろう?っていう疑問とか、こういうギターや機材使っているんだとか。
そうなると、紙でじっくり見る方がいい。少なくとも僕は(笑)」
――じゃあ、写真集も出したい気持ちがあった?
「ずーっとありましたね。本格的に出そうと思ったのはここ1、2年ですけど。言っちゃえば安っぽくなりますけど……今年が20代最後の年で、10年目なんですよ、ライヴ写真撮り始めて。節目じゃないですか。
バンドを見ていても、10年というタイミングで環境が変わっているバンドもいるし、今を逃したらいけないと思って」
――『ONE』っていうタイトルの由来は?
「そもそも、ずっと写真展のタイトルだったんですけど、こんだけのバンドがいるんだけど、全部が個性的なONEであって、この世界に一つしかないし、って思ったんですよね。
オーディエンスもその瞬間も一つしかないから。健さんの『We are Fuckin’One』っていう言葉に凄く共感しているし。
写真展のタイトルのONEは、震災前からに考えていたんですけど」
――題字が健さんというのも必然というか。
「そうですね。俺だってそうだっていう人もいるかもしれないけれど、僕が関わっている人の中で、ONEなんだよって力強く今言える人だと思ったんですよね。だから、書いてもらいたくて、『お願いしていいですか?』って言ったら、『いいよ!』って。
ただ、Ken Bandにカメラマンとして関わっているからなのか、マジですか!?ほんと嬉しいです!って舞い上がる感じじゃないんです。原点に帰ってこれたというか、まとまったな、嬉しいなっていう。
健さんは、フラットに接してくれるし、僕にとってあの人は、ヒーローだけど必死に汗かきながら歌い散らかしているバンドマンなんです」
――それって、半ちゃんが撮っている他のバンドにも言えることなんじゃないのかな?
「そうなんです。そこもONEに繋がるのかな、と。流石に2011年のAIR JAMのオフィシャルカメラマンのオファーが来た時は震えましたけどね。
やっとそこで、俺、間違えてなかったのかな?みたいに思えたというか。3人が出てきて、“STAY GOLD”がはじまって、ぶわーって涙が出てきて……
ばしばし撮り始めたら、周りにTEPPEIさんがいて、ツカサさんがいて、塁さんがいて、諸先輩方が要る中で、ハイスタが目の前にいて、何で俺はここにいるんだろう?って柵前で思いましたからね(笑)」
――半ちゃんはインタヴューの中で、自分は変わっていないって言ってきたけれど、それって重要なことで。冒頭にいい写真が撮れるっていうことは、いい音を出しているっていうことだって言ったけど、
それはカメラマンにしても、私のようなライターにしても同じで、自分自身が奢ったり濁ったりすれば、自分のアウトプットである音や写真や文章に出ると思うんだよね。
「うん、Twitterで見てくれている人に、よく、『あっちこっち行って大変ですね』って言われるけど、これしかできないんですよって。
そうすると、『マジかっけーし!』って言われるんですけど、僕の中ではハテナなんですよ。
俺は自分を馬鹿だと思っているし、これしかできないから10年やってきただけなんですよね。
それこそ高校生の時に聴いていた『MAKING THE ROAD』のブックレットの写真を撮った人(TEPPEIさん)に『半ちゃん!』って言われるなんて、
思えば遠くに来たもんだって思いますけど、来れちゃったなぁ、っていう軽々しさもあるんですよ(笑)。続ける事の大切さを今になって実感してます(笑)」
(2013年8月 渋谷・ルノワールにて)
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(2013年8月 渋谷・ルノワールにて)
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…さて、一体僕がどのような人間かわかっていただけたでしょうか。
バカ丸出しなのはしょうがないとして、何だか偉そうだなぁと自分でも思う(爆)
長時間のインタビューの文字おこしをしていただいて、高橋さんには本当に感謝しています。ありがとうございます。
実はインタビューの最中、ルノワールの店内には緊急地震速報が一度鳴り響いた。近畿地方で震度7。
これは誤報だったのだが、その瞬間はとても緊迫した。あの音は本当に聴きたくない。
聴きたくないけど、あの音で身を守れる事もあるんだから、有難いと思わないといけない。
もしライブカメラマンになりたくてしょうがないのであれば、「まずはバカになりましょう」とアドバイスします(笑)
半田“H.and.A”安政