おはようございます。今朝の温度は11℃。少し肌寒い朝です。

人はそれぞれ、壁を乗り越えて生きていますね。負けない心。持続する心、あきらめない心。
心こそ大切と、だから心を鍛えること。心は見えないが感じる世界。会得する世界。行動の中でしか心は鍛えられない。今日もお元気で。

 

〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉 作家 宮本輝さん2023年3月28日

  • 悩みもがき、それでも前へ
  • 進み続ければゴールに至る

 庶民の暮らしを題材に、時代を生き抜く知恵と活力を送り続けてきた作家・宮本輝さん。本年1月には、新著『よき時を思う』が発刊された(集英社)。作品に込めた思いや、作家としての来し方を巡ってインタビューした。(聞き手=萩本秀樹、村上進)

 
「品性」を巡る家族の物語

 〈『よき時を思う』では、冒頭、三沢兵馬という老人が東京に所有する、中国の伝統的な民家「四合院」が登場する。その一角を間借りする金井綾乃に、ある日、母から、祖母・徳子が自ら計画した、90歳の誕生日を祝う「晩餐会」の知らせが届く。一世一代の晩餐会に集う金井家の家族や、その周囲の人々に光を当てながら、幸せとは何かを問う物語だ〉
  
 ――コロナウイルスの感染が広がってから書き始められた作品ですね。四合院造りの家とは、方形の中庭を囲んで、東西南北の四つの辺に1棟ずつ建物がある造りです。それぞれが独立した家でありながら、同居しているような不思議な空間です。
  
 僕が36歳の時、日本の作家代表団の一員として訪中させてもらいました。その時、北京の街を散策する機会があって、四合院造りの家が並んでいる地域に案内されました。
 四つの家が一つの壁に囲まれていて、一家一族がそれぞれの家に住んでいる。必ず中央には井戸があって、そこで洗濯したりしていました。中庭で子どもが遊び、花や木が植えられている。夕方になれば、それぞれの家に帰って、井戸だけがぽつんと残っている。
 
 あれから40年――いつか舞台を日本にして書いてみようと思ってきました。
  
 ――家は独立していながら、人はつながっている。コロナ禍の時代にこそ、こうしたつながりを大切にしたいですね。
  
 4世帯という小さなつながりが、絶妙なんだと思います。だから、この三沢家でも、よその家には干渉しないけれども、なんとはなしに気配で分かる。ああ、今帰ってきたなとか。無関心じゃないんです。いい距離感とでもいうのかな。
 きっと今の時代って、そういう距離感が大事なのかなと思います。2日ほど顔を見なかったら、あの人、元気かな、大丈夫かな、ちょっと様子見に行こうかな、というように。
  
 ――作品に込められた思いやメッセージを、教えてください。
  
 あえて一言で言うならば、「品性」という言葉になると思います。人それぞれにも、家族にも「品性」があり、それが生きていく上で大切だと思うんです。
 では、その「品性」とはどういうものか、どのように培われていくのか。最近の出来事を見聞きするにつけ、日本人が「品性」を失いかけているように感じていました。それは、日本が豊かになったとか、貧しくなったとかとは、別の次元だと思います。
 
 もともとは、四合院造りの家が、主人公になるはずでした。四つの家族が織り成す物語を書く。ところが、その1棟に間借りする金井綾乃のもとに、滋賀の実家に住む祖母の徳子おばあちゃんから手紙が届いてから、小説が全く別物に変わってしまいました。
 
 〈京都の由緒ある家に16歳で嫁いだ徳子。2週間の結婚生活の後、出征した夫が戦死する。手紙には、自害を試みたが、生きることを選んだこと。90歳のお祝いに、孫の綾乃が贈った香水をつける日がくるとは思わなかったこととともに、「よき時を思いました」とつづられる〉
 
 はからずも筆が動いて、徳子おばあちゃんの物語になってしまいました。でも書いていくうちに、なんとも言えない境涯の深さみたいなものが、彼女の中から出てきたんです。そうであればと、徳子おばあちゃんを中心に、金井家一人一人の物語を書きました。
 
 金井家は、みんな品性があるんですね。それは、持って生まれたものなのか、それとも環境によるものなのか。裕福な家に生まれて、厳しくしつけされたからといって、持てるものではない。貧しい家に生まれて、品性のある人もいます。一人の人間の持って生まれたものではないとすれば、家族全員で、巧まずしてつくり上げていったものなのでしょう。
 そうした作為的でないもの、何かの企みによって出来上がったものではないものが、僕たちの周りには、いっぱいあるはずです。
 
 人間が持つ品性は、その一人にとどまらず、家庭をはじめ、企業や団体、国家にもつながっていく。そこにある品性のありようによって、その行く末が全部決まっていくということを、徳子おばあちゃんに語らせたかったんです。

 ――徳子おばあちゃんの品性が、「蘭室の友」に交わるように、家族や周囲に広がっていったようにも思えます。
  
 そう読んでいただけたら、作者としてはうれしいですね。
 徳子おばあちゃんは、小学校の先生を長年務め、担任教師として教えた子どもは1200人以上。蘭の香りが部屋に残るように、彼女の人徳の薫りが何らかの形で、子どもたちに移っていったかもしれませんね。

宮本さんの著作の一部。新著『よき時を思う』(左端)と、『ひとたびはポプラに臥す』全3巻

宮本さんの著作の一部。新著『よき時を思う』(左端)と、『ひとたびはポプラに臥す』全3巻

 
ささいなものに幸福を見いだす

 ――徳子おばあちゃんは来国俊の懐剣や端渓の硯、竹細工の花入れなど、大切にしてきたものを孫に分け与えていきます。「見ていると幸福な気持ちになる。それはやがて『もの』ではなく幸福そのものになる」という言葉は印象的です。
  
 何億円もする絵画とか、何百万円もするブランドものでなくてもいい。たまたまどこかで出あったもの、値段にすれば数千円しかしないようなものが、持っているうちに味が出てきて、眺めているだけで、幸せな気持ちにしてくれたりします。
 徳子おばあちゃんは、「わたしはそういうものを探して集めてきた。綾乃もそうしなさい。探せば見つかる。探さない人には見つからない」と言っています。幸せを集めて生きてきたわけですね。
 
 人は、どういうものが好きか、何を選んでいくのか。結局、そこには、その人の品性が現れると思います。そうすると、その人が歩んでいく人生もまた、その人の品性に従って、選び取られていくのではないでしょうか。
 確かに生きにくい時代です。何にでも値段が付けられて、多くの人が金勘定に血眼です。だからこそ、ささいなもの、身近なものに対して、美しいな、幸せだなと感じられる。それを見ていたら、なぜだか知らないけれど一日の疲れが取れる。そんな幸福の感受性を、たくさんの人に持ってほしいですね。
  
 ――90歳を祝う晩餐会で料理に腕を振るった玉木シェフは、教え子の一人。重度の吃音がある彼の、就職の世話をしたのが徳子おばあちゃんです。
  
 晩餐会であいさつした玉木シェフは、かつて徳子おばあちゃんに教えられた法華経の一節を暗唱し、「徳子様におかれましては、少病少悩でありましょうか」という言葉を繰り返します。
 法華経には「少病少悩」と、仏も病気になることが説かれている。誰もが病気になるし、悩みがあるものです。しかし、どんな病や悩みであっても、それは「少病少悩」に過ぎないんだよ。そんなおおらかな心で生きることを、徳子さんは玉木少年に伝えようとしたのではないでしょうか。
 
 この「少病少悩」という言葉を、僕は使いたかったんです。そこで、池田大作先生の『法華経の智慧』も読みながら、法華経に説かれる妙音菩薩を登場させました。
 さまざまな解釈があるでしょうが、妙音はサンスクリット語では「吃音」、つまり「聞きづらい声の人」を意味していたともいわれています。美しく流麗に、仏の教えを語り伝えることができた妙音菩薩が吃音だった。なんだか深いな、と。
 それで徳子さんに語らせたんです。“妙音菩薩のことを、おとぎ話ではないと信じて読むのよ、すべて真実と決めて読むのよ”と。
 
 

ほんの一言で動き出す関係性

 ――小説の終わりでは、再び三沢兵馬が登場します。長年、関係を断絶していた息子から、結婚相手に会ってほしいと連絡があり、兵馬は、息子たちが暮らす広島県福山市の鞆の浦を訪れます。
  
 四合院の主である兵馬のことを、忘れていたわけではないんです(笑)。あまりにも徳子おばあちゃんが活躍するもんだから、少し後回しになってしまった。でも、最後は鞆の浦を舞台にして終わろうと、決めていました。
 西からの海流と東からの海流が、鞆の浦でぶつかり合うんですね。瀬戸の海は穏やかなので、ぶつかり合った汐は、動かない。見ていると、あそこでせめぎ合っているなと分かるのに、波は立たない。せわしくせめぎ合っているんじゃなくて、静かにせめぎ合っているんです。
 
 昔の船乗りたちは、汐が動き出すのを待つしかない。3日間か、1週間か、どれくらいかかるか分かりません。でも、何かのきっかけで、その均衡が崩れるときがきます。西からの汐が勝てば、その海流に乗って、船は大阪がある東の方へと移動していくわけです。
 二十数年間、口も利いていない親子は、鞆の浦の汐のようだと思います。静かに押し合って、動かない。でも、ほんの一言の「ごめんね」で、汐が動き出すことがあるんです。
 
 僕が一番、書きたかったのはそのことです。だからひょっとすると、主人公は鞆の浦の潮流なのかもしれない。
  
 ――小説を文芸誌で連載している間に、大病を経験されました。
  
 肺がんと、がん化した腸ポリープが見つかり、手術で摘出しました。すると腹部にも、二十数センチの脂肪腫が見つかって、また手術で取り除きました。特に2回目の手術は、体にこたえました。
 
 入院中にベッドで寝転んでいたら、「既に生を受けて齢六旬に及ぶ。老また疑いなし。ただ残るところは病・死の二句なるのみ」(新1734ページ・全1317ページ)という、御書の一節がしょっちゅう浮かんでくるんですね。
 日蓮大聖人の年齢は60歳に近く、老いも疑いない。残すところは病と死のみ。でもそこに、無念さや悲痛さはない。悠々と、生老病死を大きく見下ろしている明るさ、強さを感じました。
 
 僕は70歳を超えて大病をした。でもこの一節を、何度も心の中でつぶやいていると、また病気をするかもしれないし、いずれは人生を終える、でも、「それがどうした」と思えました。そのとき、西からの汐と東からの汐が、僕の目の前でぶつかり合っている気がしました。
 小説の最後の場面を執筆したのは、退院した後です。人生は生老病死との格闘ですが、そんな自分を、上からそっと眺めるような時も必要なんだと思いました。
 
 これから先、「もうええやろ」と思えるくらいまで書いて、小説家としての使命を果たし終えたら、それが僕の「よき時」です。みんなに感謝して、「ちょっとチャージしてきますわ」みたいに旅立てたら、それは最高の「よき時」ですよ。

 
一度に100文字は書けません。
一文字、一文字。それしかない。

 ――『よき時を思う』と並行して、昨年12月から、『ひとたびはポプラに臥す』全3巻を3カ月連続で発刊されました(集英社)。シルクロードの旅を記し、20年以上前に刊行した紀行エッセーを文庫化したものです。
  
 27歳の時、鳩摩羅什のことを知りました。膨大な仏教経典を漢訳したのに、自分のことは何も書き残していない。鳩摩羅什が歩いたシルクロードの道を、いつか歩いてみたいと思いながらも、20年くらいが過ぎました。
 でも、1995年に阪神・淡路大震災がありました。僕も家族も無事でしたが、家は壊れました。地震の瞬間、僕は富山市にいて助かりましたが、本当は家にいる確率が高かったんです。ああ、あのとき自分は死んだんだ。そう考えたら、過酷なシルクロードの旅にも踏み出せました。
 
 ところが、行ってみたものの、ただただ、しんどい旅でした。どこを歩いても砂漠ばかり。鳩摩羅什がどんな人物で、何を考えていたのか、雲をつかむようで想像もつきません。これは書けないなと思いました。
 鳩摩羅什の小説を書く代わりに、紀行エッセーとして連載することにしました。最初の出版から20年以上たっているので、現地の街並みは随分変わりましたが、その変化も楽しんでいただけるよう、あえて当時の様子の描写のまま出版しました。
  
 ――厳しい自然や困難と対峙し続けたシルクロードの旅が、作家人生にもたらした影響は。
  
 粘りですね。諦めないということ。諦めずに進み続ければ、前進していけるんだな、と。
 
 ゴビ砂漠の真ん中を、延々と伸びる1本の道。時速80キロ、100キロくらいで走っても、全く景色が変わりません。やっとオアシスの町に着いて、ホテルに泊まって、次の日はまた同じ景色です。気が狂いそうになりました。俺たち、間違っているんじゃないか、知らぬ間にUターンして、逆戻りしているんじゃないかと疑いました。そしたら現地のガイドが、「ミヤモトサン、天山山脈がずっと右側にあるでしょ。反対に進んでいたら左側よ」とか言うわけです(笑)。
 
 迷っても、疑いながらでも、前へ進むしかなかった。暑い暑いと言いながら、それでも進む。でも、こうして無事に帰ってこられた。旅を終えることができました。
 
 小説もそうです。一遍に100文字は書けません。一文字、一文字、書くしかない。
 全く書けない日もありますよ。何も浮かんでこない。明日の締め切り、どうしようかと。でも、そのときに、あの旅をふと思い出します。ここが火焰山、ここが何とかっていう町だったな。ゴビ砂漠を一人で歩いていた青年は、今どこにいるのかなって。
 
 すると、一文字また一文字と、書ける。途中で止まることがあっても、“きょうは、これだけ進んだ。もう少しでオアシスだ”って思えます。
 前へ進むことでしか、小説は書けないと分かったのは旅のおかげです。何とか書いていけば続けられる。今も、そうして毎日、書いています。

 
庶民の歴史を描きたい

 ――5行、10行と書き続けることで、“書けないかもしれない”という恐怖を消したとつづられているのが心に残りました。旅から学んだ粘りと諦めない姿勢が、大長編である『流転の海』を完結させる力になったとも言われています。
  
 昔、井上靖さんに「書けないときは、どうするんですか」って聞いたことがあります。井上さんは「書けないときは、書くんです」と言いました。そんな訳分からんことを、と思いましたね(笑)。でも、「いつか分かりますよ。書けないときには書くんです。そしたらまた書けるようになります」って。井上さんが言った通りでした。
 
 『流転の海』も苦労しました。37年かかりました。調べてくれた人がいて、全9巻を通じた登場人物は、1200人を超えるそうです。歴史上の人物は一人もおらず、出てくるのは庶民だけです。
 
 日本をつくってきたのは庶民です。戦争で庶民が死に、戦後を庶民が生きてきた。庶民が血と汗で築いてきたものを、横取りする悪い奴も山ほどいましたが、誰が何と言おうと、日本をつくってきたのは庶民ですよ。
 そんな「庶民の歴史」を描きたかった。人間の明るい部分だけでなく、暗い部分も含めてですね。先の見えない激動の時代にあっても、人とつながり、人を大切にし、愛情をもって精いっぱい生きた人間がいる。そんな偉大な庶民の姿を、これからも書いていきたい。
 
 それも、一文字、一文字ずつですね。原稿用紙1枚をやっと書いて、1日の精力を使い果たして、また翌日、机に向かって、悩んでもがいて。それ以外に、1000枚にたどり着く方法は一つもない。どんな時代になろうと、そうしてやり抜いた仕事だけが、信用できる、最高の仕事だと僕は思います。

 みやもと・てる 1947年、兵庫県生まれ。広告代理店勤務等を経て、77年に『泥の河』で太宰治賞、78年に『螢川』で芥川賞を受賞。『道頓堀川』、『優駿』(吉川英治文学賞)、『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)、『流転の海』シリーズ全9巻など著書多数。2010年秋に紫綬褒章、20年春に旭日小綬章を受章。兵庫県伊丹市在住。文芸部員。

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