石平氏の「山鹿素行について」の講演会記録から | yaso-haruyaのブログ

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国や民族等の違いによる優劣をつける、言わば国家レベルの差別があったし、今も続いている。東アジアの悲劇は、近隣諸国同士の差別史観により、史実が歪められている事にある。史実を探り、失われた日本人の誇りを取り戻すことが世界の安定に寄与すると訴えたい。

 昨年(令和3年・2021年)10月10日、赤穂市文化会館・ハーモニーホールに於いて石平氏の後援会が行われた。演題は

 

赤穂で活躍した思想の巨人 山鹿素行について

 

  主催の赤穂山鹿素行研究会が、後援会後の12月14日に、「赤穂で活躍した思想の巨人 山鹿素行 素行生誕400年記念・石平氏講演会記録」と題する冊子を発行してくれたので、後援会内容を知ることが出来た。

 

【先ずは、石平氏について】

  人気著書が多数あり、テレビやYouTubeなどでも大活躍の石平氏は、1962年に中華人民共和国四川省で生まれた。

  昭和が終わりかけた年・1988年(昭和63年)に来日し、神戸大学大学院に留学。その後転々としつつ、現在は奈良市在住。

  留学中に起きた「天安門事件」がきっかけで反対運動に身を投じるうちに日本の文化や歴史に本格的に関心を持つようになったという。

  平成7年(1995年)の阪神淡路大震災では神戸の文化住宅で被災。

  平成19年(2007年)、日本に帰化。平成23年(2011年)に日本女性と結婚し男児を授かり、立派な日本男児にするべく育メンとして奮闘中の様子が窺える。

 

  偶々、以前から個人的に石平氏のSNSをフォローしていたので、普段からその超多忙な活躍ぶりは知っていた。

  SNSを通じて特に心を惹かれるのは、日本各地の美しい風景、後世に必ず繋いでいかなければ日本の良さを写真に撮り続けておられること。

  支那と日本の異なる文化や歴史を深く知っているからこそ、多くの現代日本人以上に日本を愛していると思わされる側面がある。

 

 

【講演記録で面白いと思ったいくつかの事柄】

山鹿素行は、

赤穂滞在中に著した『中朝事実』で、

日本思想史のコペルニクス的転回を成し遂げた

 

 儒教・朱子学は、徳川家康が統治するのに都合が良いから推奨した。それまでの日本は儒教軽視・崇仏だった。

 

山鹿素行以前の儒学者

 素行の師である林羅山は、幕府に招かれて儒教を広めた中華崇拝者。

 林羅山の先生である藤原惺窩は中華崇拝者。

 佐藤直方は、「夷狄の地に生まれたれば是非に及ばない」と日本人自身が日本を野蛮な地だと貶めるほどの中華崇拝者。

 伊藤仁斎や荻生徂徠などは、朱子学(儒教を学問化したもの)から学び始めて少し経つと、日本人には合わないおかしさを感じつつも儒学発祥の地、中国の文明を絶対視する「中華崇拝」からは逃れられなかった。

 

山鹿素行の登場

 山鹿素行は、赤穂謫居(滞在)中に、『中朝事実』という日本思想史上すごく重要な書物を著わした。

 儒学者たちが中国を崇拝する最大の理由。それは儒学や論語など「聖人の教え」を説いた孔子とか孟子などを生んだから。だから、中国は偉いと、中国を崇拝することになる。

 

 これに真っ向から異論を唱えた(=中国が中華であることを理論的に壊した)のが、山鹿素行。

 

 「日本書紀」という日本の古典の記述を根拠にして、日本には中国の「聖人の教え」が生まれる遙か以前から既に神道があった。

 神道こそ日本の「聖教」で、日本人が生み出した「聖人の道」である。

 「自然崇拝」という概念は特に日本らしい。

 

 「儒教」は以前からあった日本の「聖人の道」に言葉上の表現を与えただけに過ぎない。という石平氏の言葉は、わかりやすい。

 

石平氏自身の体験談

 言葉上の表現を与えただけ・・・を聴衆が理解しやすくした余談が良い。

 

「優しい」という意味の言葉が中国語には無い

 

 石平氏が神戸大学大学院に留学中、同郷・四川省出身の後輩女性が居た。その彼女が彼との別れ話で悩んでいると電話で相談された時のこと。

 当然、四川弁での会話中。彼の人柄を表現するのに、彼女が一言だけ「優しい」との日本語を差し込んだ。

 

 電話を切った石平氏、考えた。で、中国語にこの言葉がないからと気づいた。

 さらに辞典で調べたら、「優しい」という日本語に対し、30語以上の単語を用いてようやく表現できるのだと分かった。

 

 石平氏の実体験であるこの余談が最も印象に残った。

 言語数がやたら多いのが中国の文化。言語が発達しているとも言えるが・・・。

 そうでないと生きていけないのだと思う。

 喰うか喰われるか、弱肉強食が常の不安定な世情が連綿と続いてきた土地柄での文化とは、そういうものであろう。

 孔子や孟子が偉人あるいは聖人だとしても、理想とする社会・文化が無いからこそ生まれてきた偉人であり聖人である。と言うとわかりやすくなるだろうか。

 

 それにしても、「優しい」という意味の言葉が無いなんて・・・。これを真に理解できる日本人はどれほどいるのだろう。

 

 日本は、言葉数は少なくても伝わる文化。

 山鹿素行が説いたように、中華らしい歴史を紡いできたのは、大陸のほうではなく、我が列島にある。

 

 

中国人も日本に憧れていた

 

 秦の始皇帝が不老不死の薬を探し求めたという徐福伝説。

 不老不死の薬というようなものは、東の海の向こうにある島にあるのではないかと徐福に指示した。が、徐福は帰ってこなかったのだとか。

 石平氏によれば、この伝説には事実の部分があるそうだ。

 

 日本には仙人が住んでいて・・・、と中国のほうでは信じていた。これは夷狄というのとは異なる。むしろ憧れていたのだと。

 時代が移って、「魏志倭人伝」でも、日本は雅の風格があると書かれているのだとか。

 周辺の民族を誉めることの無い中国が、「雅」と表現するのは異例というか、他とは違う、やはり幾分かの憧れを抱いていたのだと思われる。

 

 

【石平氏の講演内容を読んで思うこと】

 日本と中国の文化の違いは、それぞれの歴史の違いから自ずと形成されたのだと、よく分かった。

 

 大陸と島国。

 常に外敵が周辺にいる・いない。・・・シナが誇る世界遺産、万里の長城が北方民族からの侵入を防ぐために築かれたことが象徴的である。

 易姓革命が繰り返され王朝・支配民族がそっくり入れ替わる分断された国家形成の歴史と皇統が続く安定した歴史。

 

岸田政権の外交。国益を損ねるばかり

《対中非難決議》

 現代の外交問題において、話せば分かると思いがちな日本人・日本政府であるが、相手も同じような感覚で外交を行っていると思ったら、それこそ国益を損なうことになる。

 

 昨年秋の臨時国会で、新疆ウイグル等における人権問題に関する対中非難決議が、野党も賛意を示していながら、自民党の茂木幹事長が「時機が違う」と国会での採択を見送られた。

 与党公明党は決議案の文面を、支那に阿ねる内容に修正した。

 親中派の議員や政党が権力を握ると、国家としての体面に傷を付ける。正に国益を損ねるのである。

 ジャーナリストの櫻井よしこさんは、「私が闘ってきたのは、(野党では無く)宏池会だったのだと、この度よく分かりました。」旨(言葉すべてを覚えていないので、概ねこのような趣旨)の発言をされた。

 

 今般の通常国会で、もし原文通りに採択されないのなら、国際社会に恥をさらす事になる。

 

《佐渡島の金山、世界文化遺産推薦の件》

 ここに来て、ユネスコの「佐渡島の金山の世界文化遺産」登録候補への推薦を日本政府が見送る流れが出来ているのには驚いた。半島出身者が強制的に働かされたとの韓国からのクレームで、推薦を見送ろうとする政府・・・。あまりにも情けない。

 

 1月24日、予算委員会で高市早苗自民党政調会長が質問に立ち、この問題を取り上げ、林芳正外相を追及した。

 「国家の名誉に関わる」と、核心を突く質問に対し、「総合的な検討をしている」と明言を避け、煮え切らない林外相。「韓国に配慮することは無い」とは言ったものの・・・。

 岸田首相は「いわれ無き中傷には毅然と対応する。」と答弁した。

ならば、粛々と推薦を進めれば良い。

 

 韓国のクレームは、事実と反すると地元新潟からは強い反発が出ている。

 

 一歩引いたら、二歩、三歩と詰め寄られる。

 そんな痛い経験を何度もさせられた。

 支那や半島の国との外交は、事実かどうかではなく、日本政府が弱腰かどうか。

 ねつ造の歴史を次々と外交カードに仕立てる。

 

 いい加減、学習しろよ。日本政府!

 

おまけ

 ついでに言えば、日本人と近隣諸国の人たちでは、遺伝子的にも随分異なるのだそうだ。

 日本人特有の遺伝子Y染色体ハプロタイプのD系統は、チベットの羌族とアンダマン諸島だけで、周辺のアジア諸国、支那・朝鮮・マレーシア・インドネシアなどは別系統のOグループなのだとか。

 で、ユダヤ人は日本人にやや近いE系統だとのこと。

 

 日本列島には縄文という時代があって、その文明は高度であり、集団生活を営みながらも平和であった。その時代に、神道の原型が自然発生的に生まれ、長い時間をかけて昇華していった。

 この縄文文明は、世界中のどこよりも先んじていたのでは無いかと、ここ近年は、そのことが証明されつつある。

 

 この縄文人は、どこから来たか?

 遺伝子的には、支那・半島ではないのである。

 

 

 そして何より、文明は高度な方から低い方へ広まるのであって、何でもかんでも、日本が支那・半島ルートで文明的なものを教えてもらったというのは、最早、ほぼあり得ないと言って良い。

 

 日出ずる国は、秦の始皇帝にとっても憧れの地であった。

と石平氏がおっしゃった。

 実は、現代の支那の人々も、日本に憧れているし、羨ましいと思っている。

これは、直接支那出身者から聞いたから間違いない。

八十玄八