映像の世紀バタフライエフェクト「零戦 その後の敗者の戦い」 NHK 1/23放送 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

 

感想
直前に新聞で「零戦」の文字を見て速攻で録画セット。
バタフライエフェクトにこういう切り口があったか・・・
零戦の誕生から末路までは吉村昭の「零式戦闘機」の流れそのままに描かれ、改めて本機の哀れさに想いを馳せた。
この零戦含む、兵器開発に携わった者たちのその後に、技術者魂を堪能した。
堀越二郎の半生についてはアニメ「風立ちぬ」でも多少描かれているが、やはり事実の積み重ねに迫力がある。

しかしNHKも戦後日本の旅客機開発を「最初で最後」と言い切ってしまった。まだMRJ(今はスペースジェット)の開発が完全に潰れたわけではないのに。
まあ、厳しくはあるが・・・顛末はコチラ
追記
2/7付の新聞で、三菱が国産ジェット断念を公表
NHKは知ってたのかなぁ・・・・


内容
最初に飛行機を作ったのはライト兄弟(1903年)

その年に「零戦」の主任設計者 堀越二郎が生まれる。少年の頃夢中になった雑誌「飛行少年」当時は第一次大戦のさなか。

新兵器の飛行機に夢中になる日々。飛行機を飛ばす夢。

大正13年 東大航空学科に入学。卒業すると三菱内燃機(のちの三菱重工業)に入社。入社3年目の昭和4年、堀越は会社の命で欧米を視察。水上機の研究を進めた。
昭和11年 堀越は初めて戦闘機を世に送った。96式艦上戦闘機。

日中戦争の最前線で活躍。敵30機を15分で撃墜。
高性能伝説。樫村兵曹の機が敵機と接触して左翼の1/3を失うも600キロを飛び生還。設計者 堀越の評価が一気に高まる。

昭和12年、海軍は新しい戦闘機の開発を堀越に指示。最高速度500キロ。後続距離2,000キロ(6時間)運動性能も。
例えれば10種競技で夫々単独の世界記録を出す様なもの。
昭和13年、設計を始めた堀越が突き詰めたのは「軽量化」
エンジンは中島の「栄」軽量小型で低燃費。
主翼の桁は住友金属の「超々ジュラルミン」 
更に、強度に影響ない部分の徹底的な「肉抜き」極限の軽量化。

被覆の金属板も1mm以下として限界に挑戦。

昭和15年7月、全ての要求を満たした戦闘機「零戦」誕生。

その年が皇紀2600年である事から命名された。

昭和16年12月。太平洋戦争の幕開け(真珠湾攻撃)
零戦は艦上攻撃機の護衛任務。抜群の運動性で米機を撃墜。
 

米国は大きなショックを受け、戦い方の教育を行う。
ゼロの見分け方の解説。そして「1対1では戦うな
零戦の快進撃に軍部は慢心し、後継機を作らずマイナーチェンジを通した。米国はゼロの残骸を集め研究を進める。
昭和17年夏、ほとんど無傷のゼロを捕獲した米国。

本土に運ばれテスト飛行を繰り返した。弱点が暴かれた。

最大のものは「急降下に耐えられない」
背後に付かれたら急降下で逃れること(追って来られない)
また操縦席、燃料タンクの防弾が一切ない(軽量化のため)
撃たれたら火だるまになる・・・これにより戦況は日米逆転。
日本軍が総力を挙げて戦ったマリアナ沖海戦。出動した零戦234機の大半が撃ち落された。零戦の優位性は失われた。
昭和19年10月。日本軍は特攻隊を結成、選ばれた機体は零戦。
爆弾を積んで体当たり攻撃を仕掛ける。終戦まで続いた。
ある時、堀越に特攻隊を称える文書の依頼が来る。
何も書けなかった。

何故零戦がこんな使い方をされなければいけないのか・・・

昭和20年8月15日。日本の降伏により終戦。
終戦後、日本の戦闘機は徹底的に破壊され、GHQは日本の航空機開発を一切禁じた。技術者たちは存在そのものを否定された。
堀越の言葉。私は職業の選択を失敗した・・・
子供たちには平和な日本にふさわしい仕事に就いてほしい。


平和国家に生まれ変わろうとする日本に、何ができるのか。
零戦技術者たちの「敗者の戦い」が、始まる。

終戦4年後、精密機器メーカ オリンパス工業に来た依頼。
→「胃袋の壁を内側から撮るカメラを作って欲しい
当時胃ガンの死亡率が高く、早期発見が求められていた。
顕微鏡の専門家、杉浦睦夫が担当になったが、その助っ人に来たのが深海正治

戦時中、ゼロ戦機銃の同調発射装置の研究に従事。

深海が描いた設計図は、零戦機銃の内部を検査する機械にそっくりだった。

昭和25年に胃カメラは完成(世界初)世界中に普及した。


昭和27年。サンフランシスコ平和条約により日本は主権回復。
航空機の生産が可能になった。世界はジェットの時代。
その先を見据えた研究者がいた。東大教授 糸川英夫
宇宙ロケットの開発を目指した。糸川は中島飛行機で隼の担当だった。かつて「栄」エンジンを開発した中川良一(富士精密工業 取締役)が協力する。


最初は長さ23センチ 200gのペンシルロケット。

中川は材料と資金を提供。技術者も派遣した。
実験では水平に発射し、スクリーンを破ることで逐次速度変化を記録。次いで2段式へと展開し大きさ、飛行距離も伸びる。
昭和33年に打ち上げた機体は高度60キロまで到達した。

日本は糸川に導かれ、宇宙開発の第一線に躍り出た。

昭和39年代、日本の自動車産業は大きく発展。戦闘機開発に携わった者の多くがその方面に行った。
そんな中で堀越二郎は農機具などを作って凌いでいたが、昭和31年彼にオファーが来る。依頼主は通産省。国産旅客機の開発。
戦前の、名の知れた設計者がが集められた。その中にいたのが土井武夫。「飛燕」他の主任設計者。堀越とは同級生。
昭和49年に作られた番組がある(航空関係の回想)

平和国家だからこそ飛行機を作らなくてはならない。技術の集約という点で航空機は有望・・・
 

堀越たちは、基本設計を終えるとプロジェクトから退いた。
後は後輩たちが引き継いで行く。
昭和39年。YS-11の開発完了。

米航空局審査官による片発離陸が行われていた。

離陸時に片方のエンジンを切る。機体は見事空に舞った。

それは96艦戦の樫村機を思わせた。テストは合格。
東京オリンピックで聖火がYS-11によって運ばれた。

昭和39年10月1日。東海道新幹線開業。
世界一の速さと安全性。これにも戦闘機の技術が生きている。
国鉄 鉄道技術研究所。終戦直後、ここには兵器開発技術者が千人集められていた。その一人 松平精(ただし) 零戦の機体振動の研究をしていた。新幹線で「蛇行動」という異常振動を防止する台車を開発した。

また「空気バネ」も開発。
ボディの丸みは陸上爆撃機「銀河」をモデルにした。

その設計をしたのは三木忠直

三木は戦争末期、特攻専用機「桜花」の設計を命じられた。
三木の言葉:本機の使用は愚の愚。人命を軽んじた非科学的計画。技術は人を幸せにするもの・・・

新幹線には戦争を戦った技術者の、平和への願いが込められていた。


21世紀になっても彼らの残した技術は健在。
2007年、台湾の高速鉄道に新幹線が採用された。
深海が携わった胃カメラは、動画も撮れる内視鏡に進化。
糸川は星になった。「はやぶさ」が向かった小惑星「イトカワ」は彼の功績を称えて命名された。

2006年。YS-11のラストフライト(定期路線からの引退)
国産旅客機の開発は、本機が最初で最後だった。
かつて技術立国として世界をリードした日本。

今やその勢いは失われた。

1982年に亡くなった堀越二郎の言葉。
零戦を生み出した技術の伝統や技術者魂は、日本人の中に生きていると思う。解明されている分野と、未知の分野との境界線を歩いている技術にこそ進歩があるわけで、絶えず失敗を恐れているのではなく、勇気と挑戦こそが必要でしょうね。

 

 

 

今日の一曲
FLY ME TO THE MOON — CLAIRE
「新世紀エヴァンゲリオン」Ending Version