ニーチェの馬  2011年(日本公開2012年) ハンガリー、フランス、スイス、ドイツ合作 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

ほくとさんのところで3月頃アップされ、ずっと気になっていた。

 

監督 タル・ベーラ、アニエス・フラニツキ
脚本 タル・ベーラ、クラスナホルカイ・ラースロー
音楽 ヴィーグ・ミハーイ

 

キャスト
ボーク・エリカ      :娘
デルジ・ヤーノシュ  :馬の飼い主・父(オルズドルフェル)

 


予告編

 

感想

はっきり言って、ニーチェの事はほとんど知らない。「ツァラトゥストラはこう語った」を書いた哲学者、ぐらいの事しか知らず、気が触れて馬を抱いたなんて話も初めて知った。
ナレーションも「馬のその後は誰も知らない」と言っている事だし、ニーチェからは距離を置いて鑑賞。

モノクロで、退屈な映画、という事前情報もあり、ある程度覚悟していたのだが、あにはからんや、最後まで緊張感を持って観ることが出来た。

 

最初の5分、ただ馬が荷車を引くだけの画面を見つめているうちに、時間軸がリセットされたのか、以後の場面展開のスローさが全く気にならなくなった。

暴風吹きすさぶ、丘陵地に建つ一軒家に住む父娘が過ごす六日間。
暮らしを維持して行くために繰り返される、ルーチンワーク。

それが少しづつ変化して行く。
まず「木喰い虫」の音が聞こえなくなった。そして馬が歩けなくなった。次いで、酒を求めて男が訪れる。
馬は餌を食べなくなり、流れ者が来て井戸の水を拝借。
井戸の水が枯れ、家を捨てて転地しようとするも、何故か舞い戻らざるを得ない事情があった。
ランプの灯が点かなくなり、そして最後の朝を迎える。


高校卒業まで伯父の家で育った。中学に上がる頃までは、家に居た牛の世話を手伝った。だから映画の中の馬を世話するシーンは、細部に亘って過去の追体験。井戸水もかまども、当時の暮らしの中では使われており、そのまま心の中に入り込んだ。

家の中に介護が必要な人が居る家庭では、毎回繰り返される着替えのシーンに胸を掴まれる事だろう。
固定されていると思わせて、カメラの視線は定点ではなく微妙に動いており、緊張が維持される。

 

六日目の朝、イモを茹でる水もなくなり、その先は生命さえ危うくなる。それが判っていて、直前まで続けられる着替えの儀式。
振り返って思い出す、あの丘の向こうには一体何があったのか。流れ者たちも向こうから来た。
最後の場面の絶望感は、今まで観たどの映画の中とも異質。

 

馬は要するに家畜。父親は、前に進めようとして手綱で馬を叩いたが、家を捨てて出ようとする時には、牽引する力を失った馬を、荷車の後ろに繋いだ。
この時点で馬は、家畜ではなく家族のような、同胞としての扱いに変わった。この映画で一番感動したところ。
馬を題名にした理由はここにある、とさえ思う。

 

何か、とんでもないものを観てしまったという後悔も含みつつ、これがもし劇場公開を観ていたら、印象はどちらに転んでいただろうか、と思う。
画面の大きさ、鮮明度はともかく、誰もいないところで、一人で観るという視聴形態が似つかわしい映画だと思った。

 

映画の中身をより理解しようと、酒を買いに来た男のセリフを全て書き起こしてみたが、神の否定と、堕落についての様々な言及。父親が「くだらん」と言い捨てる程度の話だった。

娘が流れ者からもらった書物についても、礼拝を禁じた、一種の宗教否定であり、ニーチェ的な香りは漂うが、それほど深いものはない。

 

結局、中で描かれているもの自体に深い意味はなく、映画をエンターテインメントではなく、実際の時間軸で追体験するという、新たな鑑賞方法を提示したという事か。
だが、この手法が通用する題材は、相当限られるだろう。


例によってツッコミ。

ここまでチャレンジしている割に、途中で挟まれるナレーションの何と陳腐な事よ。
六音階のオルガンの繰り返しに重なる陰鬱なストリングス。もうそれだけで十分なのに、中途半端なナレーションが、それを損なっている。

 

娘が水を汲みに行くシーンで、これだけ風がビュービュー吹いて、寒い事が判っている割りに、外に出てから汲んで戻るまで扉が開いたままなのが、どうにも共感出来ない。普通閉めてから井戸に向かうだろう。
中に居る父親の事を思ったら、余計そう行動する筈。

撮影上の演出としては効果的ではあるが。

 

この娘、ただ服従しているだけで、父親の扱いにあまり愛情がない。そういう意味で戸を閉める事に想いが至らないという事ならばナットク。
父親の方も、常に娘の作業をジロジロ見て、ケチをつけようとしている様にも見えるし、そっちの面でも緊張感があった。

 

 

 

あらすじ

最初のナレーション
1889年1月3日、トリノでの事。フリードリヒ・ニーチェはカルロ・アルベルト通りの部屋を出た。
散歩か、それとも郵便局へ向かったのか。その途中間近に、あるいは遠目に強情な馬に手こずる御者を見た。
どう脅しつけても馬は動かない。ジュゼッペか、カルロか、おそらくそんな名前の御者は烈火の如く怒り、馬をムチで打ち始めた。
ニーチェが駆け寄ると、逆上していた御者は、むごい仕打ちの手を止めた。
屈強で口髭を蓄えたニーチェは、泣きながら馬の首を抱き抱えた。
ニーチェは家に運ばれ、二日間無言で寝椅子に横たわっていた後、お約束の最期の言葉をつぶやいた。
「お母さん、私は愚かだ」
精神を病んだ最後の10年は、母と看護師に付き添われ、穏やかであった。馬のその後は、誰も知らない。


一日目
吹きすさぶ風の中、荷車を引く汚れた馬。

御者は左手で手綱を持っている。


家に着き、娘が来て馬から荷車を外すのを手伝う。小屋に馬と荷車を入れ、母屋に入る二人。
父の着替えを手伝う娘。父の右手が動かないので、作業は面倒で時間がかかる。


夕食の支度をする娘。じゃがいもを二個鍋に入れ、水を入れてかまどにかける。その間、窓際に座って外を眺める娘。
茹でたイモをそれぞれ木の皿に置き「食事よ」
片手で器用に皮を剥き、細かくしながら口に運ぶ父。時折り缶の塩をかける。娘も黙って食べる。


食事が終り、食卓から離れると窓際に座って外を見る父。娘は残飯を片付ける。
「もう寝ろ」
闇の中で、父が木喰い虫の音が聞こえないと娘に言う。58年間聞こえ続けた音がぴたりと止んだ。

 

ナレーション
娘はあおむけになって毛布を被り、オルズドルフェルは横になり、窓を見据えた。
娘は天井を、父は窓を見つめている。瓦が落ちて、地面で砕ける音が、時折り耳に届く。暴風が唸りを上げ、容赦なく吹き荒れている。

 

二日目
水を汲みに井戸へ行く娘。蓋を外し、ロープを引き上げてバケツを持ち上げる。持って来た二つのバケツに半分づつ入れ、汲み上げ用のバケツを再び落とす。もう一回汲み上げてから母屋に戻る娘。
その後父の着替えを手伝う。酒の瓶とコップを準備する娘。父は二杯、娘は一杯飲む。
顔を洗う娘。
外に出掛ける父。荷車を出し、馬を繋ぐ作業を娘も手伝う。
父が手綱を馬の尻に当てるが、馬は進もうとしない。イラついて何度も叩く父に「いくら叩いても無駄よ」
なおも手綱を振る父に「やめて」と鞍を外し始める娘。結局馬と荷車は小屋に戻された。
着替えのためにベッドに戻る父。「来い」と娘を呼ぶが来ない。イラついて靴を脱ぎ捨て、再び「おい!」
娘が来て、袖にシャツを通す。なおも威嚇しようとする父に「いい加減にして」
左手だけで薪割りをする父。娘は、たらいに湯を汲んで洗濯。父が張ったロープに洗濯物を干す娘。


作業をする父(革のベルトの加工?)。
「食事よ」。それぞれイモ一個の食事を済ませ、父は窓の前に座る。

 

戸を叩く音。娘を行かせる父。男が入って来てパーリンカ(焼酎)を分けてくれと言う。
娘に瓶を渡して「差し上げろ」と指示する父。
なぜ町に行かずに?と聞く父に「町は風にやられた」と男。
めちゃくちゃだ、全てダメになった、と続ける男。

 

何もかも堕落した。人間が一切を駄目にし、堕落させたのだ。
この激変をもたらしたのは、無自覚な行いではない。無自覚どころか、人間自らが審判を下した。
人間が自分自身を裁いたのだ。神も無関係ではない。あえて言えば加担している。
神が関わったとなれば、生み出されるものは、この上なくおぞましい。
そうして世界は堕落した。

俺が騒いでも仕方ない。人間がそうしてしまった。
陰で汚い手を使って闘い、全てを手に入れ、堕落させてしまった。
ありとあらゆるものに触れ、触れたものを全部堕落させた。
最後の勝利を収めるまで、それは続いた。手に入れては堕落させ、堕落させ手に入れる。
こんな言い方もできる。触れ、堕落させ、獲得する、または-触れ、獲得し、堕落させる。
それがずっと続いて来た。何世紀もの間、延々と。
時には人知れず、時には乱暴に。時には優しく、時には残忍に、それは行われて来た。
だがいつも不意討ちだ。ずるいネズミのように。
完全な勝利を収めるには、闘う相手が必要だった。
つまり優れたもの全て、何か気高いもの・・・分かるだろう?
相手をすべきではなかった。闘いを生まぬよう、それらは消え去るべきだった。優秀で立派で気高い人間は、姿を消すべきだったのだ。
不意討ちで勝利した者が世界を支配している。
彼らから何かを隠しておく-ちっぽけな穴すらない。
彼らはすべてを奪い尽くす。手が届くはずがないものでも、奪われてしまう。
大空も我々の夢も奪われた。今この瞬間も、自然界も、無限の静寂も。不死すら彼らの手の中だ。
全てが永遠に奪われた。
優秀で立派な気高い人間は、それを見ていただけだ。その時彼らは、理解せざるを得なかった。この世に神も神々もいないと。
優秀で立派な気高い人間は、最初からそれを理解すべきだった。
だがその能力はなかった。信じ、受け入れたが、理解することまでは出来なかった。途方に暮れていただけだ。
ところが-理性からの嵐では理解出来なかったのに、その時一瞬にして悟った。
神も神々もいないことを。この世に善も悪もないことを。
そして気付いた。もしそうなら、彼ら自身も存在しないと。
つまり言ってみれば、その瞬間-彼らは燃え尽き、消えたのだ。
くすぶった末に消え失せる火のように、片方は常に敗者で、もう片方は常に勝者だ。
敗北か勝利か、どちらかしかない。
だがある日、この近くにいた時、俺は気付いた。それは間違いだったと。
俺はこう思っていたのだ。”この世は決して変わらない、これまでも、これからも”と。
だが間違いだった。変化はすでに起きていたのだ。

 

「いい加減にしろ。くだらん」と断じる父。

男は酒を受け取ると、金を払って去って行った。

 

三日目
目覚めて着替えをする娘。かまどに火を入れる。そして水汲みに行く。戻ってから父の着替えの手伝い。
その後パーリンカを飲む。父は二杯、娘は一杯。
小屋へ行き、馬小屋の敷き藁の掃除。

糞を一輪車で外に運び出す娘。
「食べないわ」と娘。「今に食う」と父。
再び食事。食事中に、外の気配に気付く二人。

父の指図で外に行く娘。
二頭立ての荷車で乗り付けた流れ者の男女7~8名。井戸の水を飲み始めた。娘が「出て行って」と言うが聞かない。父が斧を持って流れ者たちに近づく。流れ者たちは荷車に戻り、悪態をつきながら去って行った。その時、

娘が男から何かを貰う(水のお礼)。

 

戻って食事の片付けを終え、貰ったもの・・・本を開く娘。

ひとつ。教会という聖なる場所で、ただひとつ許されるのは、神に対する畏敬の念を表す行為。それだけである。
教会という場所の神聖さにそぐわない事柄は、ことごとく禁じられている。しかしながら、聖なる教会の内部において、間違ったことが行われた。聖なる教会は踏みにじられ、毎週こうして教会に集う信徒の名誉を、著しく傷つけた。

そうした理由から教会では、礼拝を行うことができない。いつの日かまた懺悔の儀式を経て、これまで行われた、いくつもの間違いが改められ、正される時が来るまでは。

そうしてミサの執行司祭は、集まった信徒らにこう告げた。主はみなさんと共におられます。

朝はやがて夜に変わり、夜にはいつか終わりが来る。

 

ナレーション
風は依然として衰える気配がなく、同じ方向から執拗に襲いかかる。もはや大地に風の行く手を遮るものはない。もうもうたる土煙だけが荒野を突進し、乾ききった土埃の塊が次々に押し寄せる。風は不毛に地に解き放たれ、猛然と吹き荒れている。

 

四日目
娘がかまどに火を入れる。そして外へ水汲みに行くが、急に戻って来て父に「大変なことが」。
下着にコートだけ羽織って父が井戸を見に行く。干上がっていた。
「ちくしょう」と一言。そして「ふたをしろ」。
戻って娘に酒の用意をさせ、いつもの様に二杯飲んでから、しばらく動かない。
馬小屋に行く娘。相変わらずエサを食べていない。「お前はどこへも行かない」と言って敷き藁の掃除。
せめて水だけでも、と言ってバケツから掬って水を飲ませようとするが、全く飲まない馬。

荷造りの準備を始める父。娘に服、食器、裁縫道具をまとめろと指示。
どうして?と言う娘に「ここには居られない」。毛布とパーリンカ、じゃがいもも。
荷車を引いてこいと言われて、小さな荷車を母屋の玄関まで持って来る娘。荷物を積み込み、父が馬を引いて来

た。荷車の前でなく、後ろに繋ぐ。


そして出発。娘が前で引き、父も横から押す。

馬は繋がれて付いて行くだけ。
暴風の吹く中、小さな丘を登って行く荷車。そして見えなくなった。

 

しばらくして再び荷車の姿が見える。戻って来た。
再び荷物を部屋に戻す。荷車を片付ける父。片付けが終り、窓から外を眺めている娘の顔が、次第にクローズアップ。

 

五日目
朝が来て、体を起こす父。いつもの様に娘が衣類を抱えてベッドの上に置き、父の着替えを手伝う。
そしてパーリンカを二杯飲む父。その後瓶から直接飲む。残された瓶。
馬を見に行く父と娘。やっと立っているが、ほとんど動かない馬。父は馬の首にかけてある、鞍を止めるための縄を外した。
外に出て、小屋の扉を閉める娘。扉のクローズアップ。

 

暴風吹きすさぶ窓に顔を向けている父。

だがうなだれている。娘は縫い物。
食事の準備をした娘だが、父は少し食べただけで、再び窓に向かって座る。

どうしたの、真っ暗だわ、と娘の声。ランプを点けろ、と父。

ものに躓き「忌々しい」と娘。
かまどの火を取って、ランプに付ける。壁のランプにも点灯。
しばらくして居間のランプが再び消えた。

かまどの火を入れても点かない。
なぜ油を入れておかん?と言う父に「入れたのよ」
娘から火種を受け取って父が再び点けようとするが、火は消えた。
「何が起きているの?」「わからん」
「ねるぞ」「火種まで消えたわ」「また明日やってみよう」

 

ナレーション
闇の中、手探りでベッドを探す音がする。彼らは横たわり 頭から毛布をかぶる。息づかいが聞こえる。他には何も聞こえない。
嵐は去り、辺りは静まりかえっている。静寂がすべてを呑み込む。

 

六日目
食卓の前に父と娘。

父がイモの皮を剥こうとするが出来ない(茹でてない)。
「食え」動かない娘。
「食わねばならん」と言ってイモをかじる父。だが一口だけでイモを下に置き、しばらくなで回していたが、それも止める。
沈黙と静止。そして暗転。ロールしないエンドクレジット。