戦争が起きています。

国家権力というのは強制的な行使が合法的に認められているのかもしれません。 しかし、私は国家権力の源というのは国民、一人ひとりの心や魂、精神、身体、生命によって為される感情表現、意思表示、思考、他者と為される対話、理解、責任ある行動だと考えております。 

(しかし、心や魂が何なのか?私には言葉で説明することができません。)

でも、国民一人ひとりの先述したものの集合体が国家権力だと考えております。

そして人間一人ひとりの感情表現、意思表示、思考、他者との対話、理解、責任ある行動が最終的な戦争の抑止力になると私は考えております。

いくら上層部からの命令があったとしても、 その命令が正常で正当なものなのかどうか、しっかりと思考判断し、冷静な怒り悲しみの感情表現をし、そして戦争断固反対という強固な意志表示を日常生活、日常業務を責任を持って全うするという方法で示すことができれば、まだ、起きていない戦争だけは防げると個人的には思っております。

このブログにおいて、述べさせていただいた事柄、例えば、こども食堂(おとな食堂)に1円の寄付をする、私塾をたくさん日本になどは、人間一人ひとりの意思表現力、冷静な感情表現力、思考力、他者と為す対話能力、理解力、責任ある行動をする力を高めることに繋がると思うのです。まだ起きていない戦争を抑止することに繋がると思うのです。

武力で無理やりに相手国をねじ伏せたとしても、問題は何も解決しないと思うのです。

一度、戦争が始まってしまったら、どうなるか?あなたも良くご存知だと思います。

しかし、私はこの世に真の悪人は存在しないと思っています。

知ることは優しさです。

悪人と呼ばれるような方も、この世から傷つけられていると思うのです。傷つけられ損なわれたから悪人と呼ばれるような人間になってしまったと思うのです。

社会全体でその悪人と言われる一人を創り出したと思うのです。

社会が、その一人の人物を創り出したと思うのです。

傷つけられたのなら、損なわれたのなら本当は心の傷を手当てするような支援が必要だと思います。しかし、そういった心を手当てしてもらうような支援の機会を、やはり損失しているのだと思います。

社会から傷つけられた、心を殺されたのと同じ分量を、また、社会に返しているだけなのだと思いました。

心の手当てをする機会を損失してしまうのは、私は、やはり社会の仕組みに原因があると思っています。

社会の仕組みの落ち度だと思いました。

自分自身が人間からの逸脱行為をしてしまいそうなとき、必ずキャッチしてくれるような居場所を創ることができたらいいのに、と思いました。

私は一人ひとりの人間が誰一人欠けることなく生きる仕組みを渇望しています。

そのような仕組み、成熟した大人になるための機会がほぼ無償で贈られる場がそこかしこにある社会を創り上げるためにも1円の寄付の件、ご検討をよろしくお願いします。

私は弱者を途上者と、お呼びしたいと思います。人間みんな途上者だと思いました。

世の中には、お金がない貧困により人間として成熟するための経済活動に参与できない方が一定数おられます。
人間は他者と言葉を贈り交わし、愛を贈り交わし、財とサービスを贈り交わす存在です。そういった贈与と喜納のサイクルの仲間へ、貧困のために参加できないと、 他者と繋がりあえるような自分になれる経験をなす機会、他者から支援をなされる機会、勇気を養う機会、他者に頼っても大丈夫なんだ!と感じる経験をことごとく損失し人間としての成熟が果たせなくなってしまう可能性が高まります。 
人間としての実感がわかない可能性が高まります。

弱者(途上者)は本当は弱いのではないのです。勇気を養う機会、他者に頼っても大丈夫なんだ!と感じる経験を損失しているだけだと思うのです。

あなたの1円の寄付(ケアのギフト)を贈ることを通じて孤立していた社会的弱者(途上者)の方が、他者に安心して頼ることができ、勇気を持つことができ、空腹を満たせ、心身を癒すことができ、職を得たり、友を得たり、パートナーを得たり、伴侶を得たり、家族を持つことも叶うかもしれません。

ご寄付を通じてそういった、 最高に祝福されるべき状態を呼び寄せられる可能性も高くなるかもしれないと私は考えます。

1円のケアのギフトを贈ることによる一人ひとりの行為は社会的に鑑みますと、わずかなものかもしれません。しかし、そういったほんのわずかな善意と献身的な努力が、今、現在の競争と格差の収奪と奪還という社会の状態から、贈与と喜納のサイクルが循環し回る社会へと移行する契機となり、日常の秩序と平和を下支えするような人間、つまり大人が増えていくことに繋がるとも思うのです。

贈与と喜納のサイクルが循環し回る社会は、自分自身の一挙手一投足が、過不足無く、自分自身と共同体の未来の活力とエネルギーに繋がっていると確信できる社会であり、自分が社会を育んでいる感覚、社会に育まれている感覚も芽生える社会であり、共同体に属する全ての人間の生命力が高まるような社会であり、勇気を養う機会がほぼ無償で贈られる場がそこかしこにある社会であり、養った勇気を用い働かせることのできる社会であり、出会うべきときに出会うべき人に出会える社会であり、他者に頼れる社会なのです。

と、書きましたが、私は、それぞれの人の心の中は自由であって欲しいと思っています。

私の考えは共産の考えだとQuoraで教えてもらいました。
(追記 共産の考えではないとも思えてもらいました。
これを、お読みのあなたは、どちらだと思いますか?)

資本主義?の考えや共産?の考えや色んな考えが共存したら良いと思いました。

私がやりたいのは、日本に少しずつ少しずつ寄付の文化を馴染ませていくことだと思いました。

日常生活の当たり前の行為の中に、少額の寄付をすることを仲間入りさせて欲しいと思いました。

例えばコンビニで、何かを買うときに、1円だけレジ横にある募金箱などに寄付するなどです。

勘違いかも知れませんが、自分のした寄付で、誰かの気持ちが少しだけでも助かったりしたら、自分の気持ちも助かると思いました。

別に、完全に全員が贈与と喜納の社会に!と言うわけではありません。

そんなことは言えないです。

色々あるのが良いと思いました。

お読みくださってありがとうございました!