存在するのか、しないのか。
見たことあるからいる。
見たことないからいない。
どちらの意見も分かる。
あたしとしてはどっちでもいいんだけど、どっちでもいいなら、いる方が楽しいと思う。
大抵こういう類いの話には、掴みどころがなくてちょっと怖いエピソードが付随している。
聞いているだけでワクワクしてしまう。
少しでも体験しようもんなら、居ても立ってもいられなくなるに違いない。
だからこそ、大人がわざわざカッパのふるさとを訪ねてみたり、遠路はるばる座敷わらしの宿に出かけてみたり、険しい雪山に登って足跡を写真に収めてみたりする。
それだけ人の心を動かすのだから、いる・いないの真実よりも、存在そのものがスゴイ。
もちろん、いつだって冷静な反対派もいる。
証明できない存在を"いる"と位置づけるのは難しいという見解。
なるほど、一理ある。
答えの出ない論争はいつまでも続く。
そんな中、あたしが常に思うこと。
なぜ宇宙に関しては誰も疑問を持たないのか。
見た・見ないで言うなら、ほんの一部の人以外、誰もその姿を見たことがないはず。
なのにどうして、存在する・しないの対象にならないのだろう。
不思議。
もちろん宇宙人だっていたら楽しいけど、信じる・信じないで分けるなら、あたしには幽霊なんかの方がよっぽど信じられる。
家の中に何かしらの気配を感じることがあるし、職場で知らない男性が働いている姿を見たこともあるし、出先で道端に佇む女性を発見したこともある。
でも、生まれてから一度たりとも、宇宙を感じたことはない。
誰かに見られている気がすると振り返る人はいても、後ろを隕石が通った気がすると振り返る人には会ったことがない。
あたしには、科学的な遠くの宇宙より、抽象的な近くのUMAだ。
もう令和も目の前だというのに、思考は昭和からなかなか進まない。


