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今日は、「国民の休日」だからやわらかい話題にしましょう。

ヤピガメ理論で一石を投じるのは「いろんな人を好きになっていい、浮気は受け容れていいのでは?」ということです。

何故かと言うと

一つ目の理由として

「人間は自由であるべきである。自己責任が取れて、他人に迷惑をかけない限り。」

という考え方であることです。それは自分の自由を守り、相手が自由に行動出来ることを受け容れ、応援すべきだと思うからです。もちろん、それには先に述べた一定の条件がありますけど。

二つ目の理由として

「人をパートナーとして好きになるのはあくまで相対比較、又は最大公約数によってである。」

に過ぎないことです。人間は自分自身の狭い経験の中で相対的な判断をすることしか出来ないわけですから、パートナーとして選んだ人よりももっと相性が合う人と後から出会うかもしれませんし、仮に他の面がまったくダメでも突出した魅力を持った人が現れるかもしれません。

パートナーの場合お互いを気遣いすることはとっても大事ですし、それは続けるべきですけれども、常にパートナーにとって自分のもっているものすべてがもっとも相応しいなんてあり得ません。以上のことから自分がベストであるはずはない、と思ってはいるのです。

これは物事を悲観的に捉えているというよりも、「自分以外のすべての他人に学ぶべき」という考え方でありまして、「自分が持っていない美点を他人は持っている。だからその部分を好きになることは当然」ということになるのではないか、と思うのです。

他人のいい面を学ぶことはいいこととしても、それをすべて取り込むことは不可能ですからその点無理をしすぎることはないし、かといって努力しつつ常に親しい人こそ一定の緊張感があった方がいいのです。


三つ目の理由として、

「恋は一生。いろんなひとを好きになるのはむしろ自然で推奨すべき。」

ということです。
人脈を広げ、その人それぞれの魅力を好きになることは一生あってもいいことですし、恋愛のメカニズムは人間の本能である種の保存のための期間限定作用であるらしい(2009.1/14ブログ参照)です。さらに、いろんな人と付き合うこと(恋も含め人間関係全般を指す)は、人間の幅を経験上知ることになり、考え方の幅を広めることで人生が豊かになると推察します。


人の許容する考え方も人それぞれですから、これは極論かもしれません。知らなくていいことは一生知らなくていいかもしれませんが、いろんな人のいろんな世界を知ることは一生進歩し続けたい好奇心と欲望なのかもしれません。だからこそ自分で努力し他人に寛容でありたいと思います。

でも「愛と執着は違うこと」「家庭や社会的立場の枠組みを壊すことは、自分も含め関係者を不幸にする可能性が高い」ことを留意されてあんまり流されないようにね・・・

それと、「もしパートナーが自分に愛想をつかしたらどうするか?」という問題がありますが、それは後日としましょう。

そう考えたら、あんまり自由ってないんですよね。自由でないこともかえって幸せかもしれませんが。