パンドラの赤い箱 約束された過去 | 山本昭彦のブログ

パンドラの赤い箱 約束された過去

 

黒澤ばなしが終わってから張芸謀+作品に進むはずだったが、
ちょいとワープして、

今回は彼とこれらの映画がからむ。

 

 

きみに贈る映画100選 No.028 芙蓉鎮 1987 中国 

きみに贈る映画100選 No.030 活きる 1994 中国

きみに贈る映画100選 No.091 サスペリア 2018 イタリア+USA

きみに贈る映画100選 No.120 太陽に灼かれて 1994 ソ連

きみに贈る映画100選 No.121 戦火のナージャ 2010 ロシア

きみに贈る映画100選 No.122 遥かなる勝利へ 2011 ロシア

 

 

ワープするのはこの映画のせい、もしくはこの映画のおかげ。

 

 

きみから贈られた映画 三体 2023 UK+NETFILIKS

 

 

「ナージャ三部作」で

象徴的に歌われるタンゴの歌詞。

 

 

朱に染まった偽りの太陽が波間から登り、

おまえは言った。

「もう愛してはいない」と。

 

 

原語のロシア語は、私にはチンプンカンプンなのだが、

朱に染まった太陽とはいかにも詩的なフレーズだ。

翻訳者がうっかり言葉を踊らせてしまったのか?

それとも原語自体がそういうボカした表現だったのか?

だが、ここは素直にこう訳すべきだった。

赤い太陽と。

 

 

太陽とはすべての命をはぐくむもの。

そして人に希望を与えるものだ。

赤い太陽とは共産主義。

もしくはその象徴たるべき存在、

この映画の場合はスターリン。

「三体」でのそれは毛沢東だ。

 

 

共産主義は、

少なくともソ連や共産中国の共産主義は、

赤い太陽その人への愛だけを人びとに強制した。

神仏への愛さえ許さなかった。

肉親や郷土への愛も否定させ捨てさせた。

 

 

文化大革命の時代。

毛沢東に扇動された若者たちは

旧来の文化や制度を次々と破壊していった。

「三体」の導入部で彼らが叫ぶスローガン。

字幕では「革命は正義だ」

原語音声では「造反有理」

新しい正義によって、新しい真理によって、

それまでの愛は否定された。

 

 

その結果、文革下の中国では、

子が親を、妻が夫を、あるいはその逆のパターンで、

「愛したのが間違いだった者」を

反革命分子=反・毛沢東主義者として告発し、

公開裁判ではその罪を鳴らす証言者の最先鋒に立った。

 

 

罪を問われた者は円錐形の帽子ををかぶらされて

大衆の面前に引きずり出される。

毛沢東思想を信奉する若者たちの私兵集団=紅衛兵は

「被告」に精神的かつ肉体的暴力を加え、

自己批判と自己否定を強要した。

あの帽子の形状から、このリンチをジェット式と呼ぶ。

 

 

「罪」を認めない者に与えられる罰は死だ。

「裁判」の場で殺すことはないが、

リンチで重傷を負った者にまともな治療を施さなければ

結局はそうなる。

子が親を、妻が夫を死に追いやるこの世の地獄。

それが文革だった。

 

 

毛沢東の死後。

鄧小平が復権し開放政策をとるようになると、

文革は毛沢東の側近だった四人組の失政として否定される。

やがて文革の悲劇を扱った映画も生まれる。

その嚆矢が「芙蓉鎮」だ。

しかしだ。

中国が表現の自由の国になったわけじゃないぞ。

鄧小平が、

反毛沢東派であった彼の正当性をアピールするために、

そのような作品の公開を許可したに過ぎない。

だがそれらの映画の中であっても、

紅衛兵のリンチが被告を殺す描写は皆無である。

 

 

お約束というやつだ。

天安門には今でも毛沢東の肖像がでーんと居座り、

周辺の土産物屋では毛沢東バッジが人気商品。

彼は建国の父だからな。

アレについてはアレなのでなかったことになっている。

それと同じことだ。

非合法裁判でリンチやりたい放題だった結果、

一億人どころじゃない人間が無実の罪で虐殺された、

などという事実は、

今イマの中国とその政権にとっても不都合すぎる真実だ。

だからソレはアレなのでなかったことになっている。

 

 

現在のドイツでは、

ホロコーストについての定説に異議を唱えると、

それは公式に犯罪と認定される。

たとえば犠牲者の数600万人とされていることに対して、

「いや私の試算では20万人のはずだ」と書いたら即発禁。

お約束というやつだ。

すげーファシズム。

そうだ、ファシズムとはそういうお約束のことを言う。

 

 

文革とホロコースト。

その時代を生きた中国人とドイツ人は、

稀代の独裁者に扇動された結果だったとはいえ、

大なり小なり、肉親を売り、隣人を見捨てた加害者だ。

彼らがその罪の意識から解放される手段はひとつしかない。

 

 

21世紀版の「サスペリア」はオカルト仕立ての作品だが、

そのテーマは「魂の救済」だ。

東西に引き裂かれた祖国での過去に苦悩する男を、

魔女デイジーは「忘却という呪い」で救う。

この映画の論評がアホなのばかりなのは、

ライターが歴史を全く勉強していないからであって、

彼らはおそらく「三体」も同じレベルで論評するだろう。

 

 

同じように、

現代中国に生きる者のうち、

文革の時代を生きた者はすでに少数派となった。

60歳以下=社会や世論を動かす者、

特にSNSで情報を発信できる世代が知っている文革は、

鄧小平が認めた「映画に描かれた文革」でしかない。

だから彼らは「三体」における公開裁判の描写を

「意図的に民衆を野蛮に描き中国を貶めようとしている」

などと怒りまくって炎上している。

 

 

彼らを笑うことはできないよ。

日本人だって文革を知らない。

「確かにね。ここまで無茶な裁判はいくらなんでもないやろ」

「まあ映画だから多少は誇張した表現もあるさ」

ぐらいに思ったって不思議じゃない。

私が文革について学習した結果に照らせば、

あのシーンはそれでもまだ抑制されていると言いたいぐらいだ。

 

 

張芸謀の「活きる」は疑いなく傑作と言っていい。

国共内戦、大躍進政策、そして文革と、

時代の激浪にもてあそばれる民衆の姿を、

せつなくやるせなく、しかし瑞々しく描き切っている。

文革の時代の描写では、

主人公の家族にも「文革に起因する悲劇」が降りかかる。

しかし張芸謀は、それを絶妙な遠回し加減で描き、

しかも微妙な笑いまでそこに忍ばせている。

 

 

いつまでも罪を引きずって生きるのが嫌なら、

笑い飛ばしてしまえ文革なんて。

張芸謀はそう言っているように見える。

 

 

演技の極意。

イマドキのコンビニ役者に聞かせてやりたい杉村春子。

本当にうれしいとき人は泣くものよ。

どうしようもなく悲しい時? 笑うしかないでしょ?

張芸謀の演出はこれと同じだ。

 

 

そもそも張芸謀は、ハナから文革を描こうなんてしていない。

「活きる」 は過去を語ってはいるが未来を見つめるための映画だ。

今さら文革の実態を訴えて、それが何になる? 

民族の汚点をあえて語る必要がどこにある? 

それは自虐だ。

私たちは悲劇を悔やむのではなく、

悲劇を乗り越えてきたことを誇ろうではないか。

これはそういう映画だ。

 

 

この映画が制作された21世紀初頭は、

中国が飛躍的な経済成長を遂げつつあった時期だ。

大衆にとって、

明日は今日よりきっといい日になると信じられた時期だ。

映画というものが、

その時代の人びとを励まし勇気づけるために存在できるとしたら、

これはそのお手本のような映画であるとさえ言える。

だから地獄なんて描かない。

それは誰も幸せにしないのだから。

地獄の底に残されたたったひとつの希望をこそ語ろう。

それは未来だと。

 

 

「三体」はまだ第一シーズンを見ただけだが、

なんつーか「百億の昼と千億の夜」と同じ鳥肌が立ったわ。

ネトフリのオリジナルなんて、

どーせ客寄せパンダ映画やろと相手にしていなかったんだが、

むかし負うた子に道を教えられてありがたやありがたや。

 

 

しかし困ったな。

今回のこの記事は「映画はうんこ」の延長線上にあり、

かつまた「三体」ばなしの導入部ともなるんだが、

これってサイボーグ009なみの

「永久に終わらないテーマ」にとりかかったような感じで、

言わんこっちゃないやめときゃよかった迷路にさしかかった気分。

とりあえず次回からは黒澤に戻り、

うんこばなしを完了させるとしよう。