特別な存在である事を迫られる社会 | ~アメリカに移住した日本人家族~

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気が付いたらいつの間にやら米国暮らしも延べ10年。。。日常生活やあからさまには言いにくいホンネをありのままに書いてます。ブログ主の身バレは厳禁・要注意。

今日は少しトーンを替えて、このところの行き過ぎたトランスジェンダー賞賛とか似非リベラルについて思うところを。

 

アメリカの学校教育(パブリックスクール)に娘を通わせて感じるのは、子供に対する寛容性や主体性の尊重。

 

「あれがやりたい」、「これは嫌だ」、「私/僕はこうやりたい」という子に対して、先生たちはなるべく要望を満たそうとする。

 

さらに、相対的な優劣や順位の競争よりも、個々のユニークさや自我に優先度を置く方針もよく見る。

 

そして、「あなたは特別な存在」、「他人と違っていることは誇らしい」ということを盛んに教える。

 

まあこれに関しては、日本の学校教育が現在どうなのか?は良く分からない。

昔は違ったが、今ではこれと似たようなものなのかも知れず、もはやアメリカに特別なものではないのか。

 

こういった寛容性、主体性、自我の尊重、というものは「一定の限度」や「確固たる社会規範」の上に存在している限りにおいて、子供たちの成長を促しプラスに働くのは事実であって、それ自体否定しない。

 

ところが、ベースになるような価値観や行動・社会規範すら分からずに、何でもかんでもこういったスタンスで教育を行えば自ずとその結果は見えてくる。

 

つまり、単なる「ワガママ・モンスター」、「かまってちゃん」、「俺様ジャイアン」、「空気の読めない不思議ちゃん」、などの問題児童を大量生産し、やがてそういった子供がそのまま大人になってしまい、ますます手が付けられなくなる始末。

 

そして学校内や教室ではそういった一部の問題児だったり特別にケアしなければならない生徒に対して、先生の注意や稼働のほとんどが割かれることになり、結果として何も問題を持たない、あるいは聞き分けの良い我慢強い生徒たちの心のケアや声に出せない心のヘルプに手が届かず犠牲になっているというのが実態であろう。

 

さらに思春期をむかえたり、聞き分けの良い子である事に疲れてしまったりした子たちは、そんな状況を見ればみるほど、

 

「僕は何も問題がなくて果たして良いのだろうか?」、「本当の私はこんな姿ではないのでは?」と感じ始め、深い悩みの罠にはまってしまう。

 

その結果、「自分は特別な存在、変わった存在にならなければ」、「これまでの姿や信念の外に新しい本当の自分がある」という思い込みや強迫観念を持つようになり、やがて行く着くのが「きっと、私・僕の本当の姿は別の性なんだ」という安易な結論。

 

こういうパターンでトランスジェンダーやら良くわからない色ものアイデンティティに陥って、その結果として「勘違い」な自信を持ちアグレッシブになっているような奴らは少なからず存在している。

 

奴らの一部が時に威圧的であったり、ディマンディングであったりするのは、そういった「過去の自信の無さをブレークスルーして、自分は特別な存在になった」という思いがあるから。

 

つまり、学校で問題児や特別なケアが必要な子に対して、先生や大人たちが持て囃し特別な存在として扱っていた事実をさんざん目の当たりにしているので、「さあ、今はもう特別な存在となった私・僕をもっとケアしなさい」という大いなる勘違いが大手を振って横行し始める訳で。

 

話を少し戻すと、繰り返しになるが主体性、個性、ユニークさそのものを否定するつもりは毛頭ない。

その向かう先があまりにも安易というかズレているのだ。

 

特別な存在でありたいなら、例えばスポーツや芸術の分野で自らを磨くような事であったり、マスやサイエンスの分野で抜きんでるよう努力するべきであり、

 

そういう努力や忍耐にそのエネルギーを向けることから安易に逃避して、特別な存在になるための解決先を、誰もが産まれながらに持ち自分の思い込みだけで簡単に付け替えしてスペシャルになる「ジェンダー」に落としどころを見つけるような姿勢がそもそもルーザー。


さらには、そんな奴らに限って「生きるのが苦しい社会」とか言い出す。

 

そして、繰り返しになるが、そんな多くの「ワガママ」で「問題児」たちへの対処のために、規範を守り忍耐強いマジョリティが、当然の様に犠牲になっている、または犠牲になって当然という状況が間違っているのだ。

 

これは何も学校内に限らず社会にも通じる話であって、一部のキチ害や権利だけを主張して義務を果たさない中二病の大人たちが増殖し、規範を守る多くの真っ当な社会人の犠牲や礎によって、そんな中二病の大人たちが必要以上に加護され恩恵を受けているのが悲しい実態なのだ。

 

そんな規範や多くの人が持つ価値観を逸脱して「特別な存在である事」ばかりにフォーカスされている社会の行く先はカオスであり、やがてそんなカオスにも辟易とした社会を独裁的に封じ込めるというのがマルクス共産主義や似非リベラルのやり方だというのは言うまでもない。