茂木 健一郎
「脳」整理法

 超整理法についで読んだ本。

 最初は題名のパクりっぷりというか、いかがわしさから、何の気なしに読みはじめたが、読み終えてみると、とてもためになったと感じた。

 この世界は偶有性(contingency)に満ちたもので、半ば偶然、半ば必然なものである。
その中で、科学的に世界を記述する「世界知」と、一人称的に世界をとらえる「生活知」のふたつがある。

 世界知は本質的に統計的なもので、ある母体数が存在するときには確率的にこうであると言う予言をあたえるが、一方で母体数1である「私」の場合には力を失う。文中では生存率を引合に出して説明してある。

 本書では世界知を絶対的に確立した「大文字」の存在ととらえるのでは無く、偶有性をもつ「私」と密接に関連したものとしてとらえることが必要であると説いているように私は読んだ。

 私が茂木氏に惹かれる理由がここにひとつ見えたき気がする。立花隆氏や茂木氏のように科学的な知識やものの考え方を身につけつつ、一般啓蒙書を書くことは、世界知のバックグラウンドをもって生活知について言及を行うことと言える。これは本書で述べている「世界知」を「生活知」に引きよせることに他ならない。

 研究者が研究を行うことは、逆に生活知から世界知を導き出すことであると考えられる。私も、その端くれとして取り組んでいたのであるが、生活知の曖昧性と世界知の理路整然、一見すると無味乾燥なギャップに私は困惑していた。具体的には、卒論、修士1年でしてきた自分の研究では、 理論的な背景とひろがりが薄弱としていて、研究している自分自身が五里霧中であると感じていた。本書を読み、ディタッチメント(認知的距離:対象を私から一歩引いた視点から見つめること)が未熟でどんなときに、どんな視点を持つべきかというのがあいまいだったせいではないかと反省させられた。

 また、他の研究者が生み出した世界知を「ありがたいもの」的に固定化して考えていたところに、どこにも足が踏み出せなくなった閉塞感が生み出された原因があったのではないか。

 いろいろなものを偶有性をもつ「私」や他のものに関連付けて考えることで、思考停止を回避する。心に刻んでおこう。

// 著者の写真が明治時代チックなまじめっぷりでブログの写真とのギャップを感じます。