こんにちはyanagi(Big Spoon)です。 (・∀・)
今日はどんよりした天気でしたね。
洗濯にも不適な日でした。残念~。
(・´ω`・)コマッタナ-…
*:..。o○☆゚・:、。*:..。o○☆゚・:、。゚・:、。★゚・:、。゚・:、。☆*:..。o○☆゚・:、。*:..。
さてさて。
もうこのタイトル(「概念装置」というタイトル)見あきた
わ~、という声がなんとなく聞こえてきそうですが、もうし
ばらくおつきあい下さいね~。てへぺろ。
(この「てへぺろ」がブログとかで使われているのがイヤ、
という声も多いようですがご容赦のほどを。だって好きな
んだもん)
ま~、それはさておきです。前回からの続きです。
これまでの記事で書いてきたように、私は特定の曲を聞くと
涙ダダもれ状態になるということ、そしてなぜ特定の曲の時
にだけそういう状態になるのかを積極的に説明できる理屈が
ないように思われること、について書いてきました。
ところで、『そんな状態になるのは、そういった曲があ~た
の琴線に触れたからでしょう?』といった理屈では、何も説
明したことにはなりません。
というのも、特定の曲(あるいは演奏者といった関連要素)
でだけそういう状態になり、他の曲(あるいは要素)ではそ
うでない、ということを説明できなければ、説明原理として
は意味がないからです。
それではオバちゃんたちの井戸端会議で話される世間話(失
礼!)と、何ら変わるところがありません。
こういう場合、一つのやり方として概念上の仮説的装置を使
うというのは頻繁に用いられるものです。
例えば「心」を例にとってみます。
「心」とは何か?
大昔から哲学的にも追求されてきた疑問ですよね。でも、今
にいたるまで「これ!」という解答は出ていません。
最近の脳科学の進展で、昔にくらべたらずいぶん多くのことが
分かるようになってきましたが、それでもまだまだ不十分です。
これは脳科学のみの問題ではないのですが、量的な解析ができ
ることやYESかNOの判断がつくことについては、多くのこ
とが分かってきたことは事実です。
しかし、Aを選んでなぜBを選ばないのか?といった理由が
重要なこと、そして質的なこと(例えば「愛」とは何か?と
いったこと)に関しては、いまだ分かっていることの方がは
るかに少ないと考えられます。
ま~、それはさておき、『心』というものがいまだ未知の部
分が多く、そもそもあるかないかさえ判明していないにもか
かわらず、この『心』という概念を使わなければ、『心』に
ついての議論がそもそもできないのです。
でも、逆の言い方をすると仮説的に設定された『心』という
概念装置を用いれば、いちおう『心』についての議論ができ
るのです。
(ちなみに、哲学の認識論ではこういう問題が議論にあげら
れてきました。上に書いたような議論というものは成立して
いない、という観点をとる哲学的見解もあるのです。また、
この認識論上の問題も最終的な解決をみていません)
平たくいうと、例えば『心』という非常に一般的な概念でさ
え『ことの真偽はともかく、役に立つモノなら使っちゃえば
いいじゃん!』という観点から用いられてきたわけです。
続きま~す。。
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