【映画叙景】(AI雑談)

●私
副題:「神話の中の神の概念」
『ユリシーズ』
('54/103分/伊)…9/7(配信Amazon)(初見)
まず、この記事は“映画感想”ではなく“映画叙景”であり、話題作『オデュッセイア』を観る前に予習として本作を鑑賞したのですが、鑑賞後に物語の土台となる“ギリシャ神話”に対して疑問に感じた事を、AIに聞きたいと思い書きました。
なので、『オデュッセイア』に関する予備知識程度に読んで頂けると助かります。
本作『ユリシーズ』(「オデュッセウス」のラテン語形・英語形での名称)ですが、私が生まれる1年前の作品で、日本映画の『ゴジラ』と同年の作品ですね。
昔、テレビ洋画劇場で観たかも知れませんが、定かではありません。
今観ると、かなり子供向けの様に感じてしまいますが、豪華俳優であり当時の感覚では“大作”として扱われていたのかも知れません。
今の技術と比べてしまうのは酷ではありますが、子供向けと感じる要素として、“神話”そのものが、あまりにもファンタジー過ぎるので、歴史大作というよりも冒険活劇としてみえてしまうからだと思います。
なので、子供の時に観ていたら夢中になっていたとは思います。
で、私が疑問に思ったのが、これらの神話に登場する神々を、当時の人間はどの様な概念として認識していたのか?ということです。
キリスト教・仏教・イスラム教よりも千年以上も古く、一神教でもなく、経典とか教義も有るのか無いのか分らないし、神と人間との繋がりも直接的で、更には善神とか悪神とかいて、人間の様な煩悩まで感じられ、今の神の概念からすると余りにも俗っぽく人間に近い存在なので、その辺りの神と人間の関係がよく分からないのですよ。
そして、今の日本のアニメで流行っている“異世界モノ”の世界観がそのまま感じられるので、“神”という存在は当時はどの様に捉えられていたのか?(例えば超人)
それが、何が原因で今の様に変化したのか?が、今更ですが知りたくなり、その辺り簡単にまとめて教えて貰えますか?
★AI
はい。これはかなり面白い疑問だと思います。
そして、あなたが『ユリシーズ』を観て「これ、今の異世界モノとほとんど同じじゃないか」と感じたのは、かなり本質を突いています。
結論を先に言うと、古代ギリシャ人にとって神々は「世界を創作した絶対的な存在」というより、「人間よりはるかに強大だが、人間と同じ世界に住み、人間と関わる超人的な存在」だった、と考えると分かりやすいです。
①.古代ギリシャの「神」は、現代の「神」とかなり違う
たとえばゼウス、ポセイドン、アテナ、アポロンなどは、
・人間より圧倒的に強い
・不死に近い
・超自然的な力を持つ
・世界や自然現象に関係する
という点では「神」ですが、
・怒る
・嫉妬する
・恋愛する
・嘘をつく
・喧嘩する
・人間を贔屓する
・人間を罰する
・神同士でも対立する
という、非常に人間臭い存在でもあります。
つまり、「人間とは根本的に異なる絶対者」ではなく、「人間を超越した能力を持つ人格的存在」という感じです。
だから『オデュッセイア』では、神々が人間の人生に普通に介入します。
「アテナがオデュッセウスを助ける」「ポセイドンがオデュッセウスを邪魔する」などは、古代人にとって「神話だから面白い」というだけではなく、神々と人間が同じ世界の中で関係しているという世界観だったわけです。
②.では、古代ギリシャ人は本当に「ゼウスが人間のような姿をして空を飛んでいる」と信じていたのか?
ここがちょっと難しいところです。
現代人は神話を、「昔の人が作ったファンタジー物語」として読んでしまいます。
しかし古代ギリシャの宗教は、現代の宗教とはかなり違います。
聖書やコーランのような一冊の「正典」があって、「世界はこういうものだから、こう信じなさい」と体系的に教える宗教ではありませんでした。
むしろ、「昔からこういう神々がいて、こういう祭りをして、こういう儀式をして、こういう時にはこの神に祈る」という生活習慣に近い。
だから「ギリシャ神話=ギリシャ人の聖書」と考えると、かなりズレます。
ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』も、現代でいう「宗教の教典」ではありません。
神話、詩、祭祀、伝承、都市ごとの習慣などが複雑に重なっていたのです。
③.しかも「神様の性格」が地域によって違っていた
これも面白いところです。
例えばアテナはアテネでは非常に重要な神ですが、別の都市では別の神が中心だったりする。
そして同じ神でも、「この神はこういう性格だ」というイメージが完全に統一されていたわけでもありません。
だから現代のように、「キリスト教徒ならこの教義を信じる」「イスラム教徒ならこの教義を信じる」という形とは違う。
「この神様を大切にして、この祭りをやって、この儀式をする」という実践の方が重要だった。
これは日本の古い神道にも少し似ています。
④.では、なぜ神々がこんなに「人間臭い」のか
ここが今回の一番面白いところだと思います。
古代ギリシャでは、“人間を基準にして世界を理解していた”からです。
雷が鳴れば、「ゼウスが雷を投げている」
海が荒れれば、「ポセイドンが怒っている」
という具合です。
自然現象や人生の出来事を、“人格を持った存在の行為として理解する。”
すると当然、その神様にも「怒り」「欲望」「好み」「敵味方」が生まれます。
つまり、“世界そのものを、人間関係の延長として理解していた”とも言えます。
だから神々が人間臭くなる。
➄.ここから「現在の神」への変化が始まる
そして、あなたの「それが何が原因で今の様に変化したのか?」という疑問につながります。
かなり大雑把に歴史を一本の線にすると、「多神教 → 哲学的な神 → 一神教 → 絶対的な神」という方向へ進んでいった、と考えると分かりやすいです。
もちろん実際の歴史はこんな単純ではありませんが。
古代ギリシャでは哲学が発達して、「神々が人間みたいに喧嘩したり浮気したりするのは、本当に神なのか?」という疑問も出てきます。
「もっと完全な存在がいるのではないか」「世界を統一している原理があるのではないか」という発想ですね。
ここから徐々に、「神=超人的な人物」から、「神=世界の根本原理・完全な存在」という方向へ、「神」という概念そのものが抽象化されていきます。
⑥.そして一神教が決定的に変えた
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教では、“神は世界の中にいる存在ではなく、世界そのものを創造した存在”になります。
ここが、ギリシャ神話との大きな違いです。
ギリシャ神話では、「神々 + 人間 + 自然」が同じ世界の中にいる。
ところが一神教では、「神 → 世界 → 人間」という構造になります。
神は世界の一部ではなく、世界の「外側」にいる。
だから神の性格も変わってきます。
ゼウスのように、「今日は機嫌が悪いから雷を落とす」という存在ではなく、「世界そのものの秩序や善悪を決める絶対的な存在」になっていく。
ここで「神」の概念が、かなり現代的なものに近づきます。
➆.だから『ユリシーズ』が「異世界モノ」に見える
これはかなり納得できる話です。
現代の異世界ファンタジーには、
・人間界
・神
・魔物
・超能力
・神の加護
・神の怒り
・特別な英雄
・神々同士の勢力争い
がありますよね。
これ、かなりギリシャ神話そのものです(笑)。
しかも、
「主人公には女神が味方している」
「あの神は主人公を憎んでいる」
「神の都合によって主人公の運命が変わる」
なんていう設定は、現代ファンタジーなら普通にあります。
つまりあなたが感じた、「今のアニメの異世界モノの世界観がそのままある」という感覚は、偶然ではありません。
むしろ逆で、「現代ファンタジーのかなり根っこの部分に、ギリシャ神話がいる」と言った方がいいでしょう。
⑧.そして、もう一つ重要なのが「神話」と「物語」の関係
ここは『オデュッセイア』を見るうえでも結構重要です。
現代人は、「これは本当の話なのか? 作り話なのか?」と考えます。
しかし古代人にとっては、必ずしもその二択ではなかった。
神話は、
「世界はどういうものなのか」
「人間はどういう存在なのか」
「なぜこの祭りをするのか」
「なぜこの神を恐れるのか」
などを説明する文化的な物語でもあった。
だから神話には、歴史、宗教、文学、娯楽、道徳、世界観が全部混ざっています。
現代人が「宗教」「文学」「娯楽」と分けているものが、当時はもっと一体化していたわけです。
⑨. まとめると
あなたの疑問をかなり乱暴に一枚にすると、
・古代ギリシャ
神=人間より圧倒的に強い「超人」→
人間と同じ世界に住み、人間に介入する →
神々も恋愛・嫉妬・喧嘩をする →
神話は宗教・文化・物語が混ざったもの
・その後
「そもそも神とは何なのか?」という哲学的思考 →
神の抽象化・普遍化 →
一神教の発展 →
神=世界を創造した絶対者 →
現代人がイメージする「神」に近づく
という流れです。
だから、『ユリシーズ』を「子供向けのファンタジー映画みたいだ」と感じたこと自体は、現代人の感覚として当然なのですが、逆に言えば、その「ファンタジーっぽさ」こそが古代ギリシャ人の世界観をかなり素朴な形で残しているとも言えます。
そして『オデュッセイア』を観る前なら、この点を頭の片隅に置いておくと、「なぜこの神はこんなに人間臭いんだ?」という違和感が、少し違ったものに見えてくると思います。
今回の「映画感想ではなく映画叙景」という位置づけにも、この話はかなり合っています。
作品そのものより、「映画を入口にして、なぜ昔の人間はこんな世界を想像したのか」を考える記事になっていますね。
●私
ホメロスは吟遊詩人ということで、職業的に今で言うエンタメと捉えても良いのか?
★AI
はい、かなり「エンタメ」と捉えていいと思います。
ただし、現代のエンタメと完全に同じではありません。
ホメロスの時代の「吟遊詩人(詩人・歌い手)」は、広場や宴会などで、物語を声と音楽によって観客に聞かせる職業的なパフォーマーだったと考えられています。
『イリアス』『オデュッセイア』も、最初から「本として読まれる作品」ではありません。
文字で固定される以前に、口承で何度も語り継がれてきた英雄物語です。
なので、現代に置き換えるなら、「映画監督+脚本家+俳優+ミュージシャン+落語家」を少しずつ合わせたような存在、と考えると近いかもしれません。
ただし「娯楽だけ」ではないここが重要です。
観客は「今日はオデュッセウスの冒険を聞いて楽しもう」と思って聞いていたでしょうから、当然エンタメ性はあります。
怪物が出てくる。
神様が介入する。
英雄が危機に陥る。
美女が登場する。
戦闘がある。
故郷への帰還という大きなドラマがある。
これだけ揃っていれば、相当に面白い冒険活劇です(笑)。
しかし同時に、
・神々とは何者なのか
・英雄とはどういう人間なのか
・人間は運命にどう向き合うのか
・名誉とは何なのか
・家族とは何なのか
・神をどう敬うべきなのか
といった、当時の人間にとって重要な世界観も含まれている。
つまり現代の感覚でいう、「娯楽映画だけど、その時代の価値観もいっぱい入っている」という状態に近いと思います。
そして面白いのは、前の話につながりますが、「神話=宗教」と考えすぎない方がいいということです。
『オデュッセイア』を聞いていた古代人にとって、「これは神聖な宗教教材だから真剣に聞かなければならない」というだけではなく、「昔から伝わっている英雄の面白い物語を、すごい語り手が聞かせてくれる」という楽しみ方も当然あったはずです。
だから私は、あなたが『ユリシーズ』を観て、「これ、神話というより冒険活劇じゃないか」と感じたのは、ある意味では非常に自然だと思います。
むしろ現代の映画が勝手にそうしたのではなく、元々の『オデュッセイア』自体に「人々を楽しませる物語」という側面がかなり強くあったと考えた方がよさそうです。
そしてこれは、あなたが最初に言っていた「異世界モノ」にもつながります。
神話 → 吟遊詩人による物語 → 文学 → 小説 → 映画 → アニメと、媒体は変わっても「超自然的な世界で英雄が冒険する物語」を人間が楽しんできた、と考えると、かなり長い一本の線が見えてきます。
●私
日本の琵琶法師とほぼ同様の役割りかな?
★AI
はい、かなり近い役割だと考えていいと思います。
ただし、「古代ギリシャの吟遊詩人=日本の琵琶法師」と完全に同じではなく、機能的にかなり似ているという感じです。
たとえば、
・吟遊詩人(アオイドス等) → 竪琴などを伴奏にする → 英雄・神々の物語を語る
・琵琶法師 → 琵琶を伴奏にする → 「平家物語」などを語る
後は同様に、口承で伝える → 聴衆を楽しませる → 物語と歴史・伝承が混ざる
特に面白いのが、『オデュッセイア』と『平家物語』の距離感です。
現代人からすると、「オデュッセウスなんて神話上の人物でしょ」「平清盛や源義経は歴史上の人物でしょ」と分けたくなります。
でも、口承で語られていた時代の人々にとっては、そんなに明確な区分ではなかったでしょう。
「昔の英雄たちについての有名な物語を、語り手が聴衆に聞かせる」というところは非常によく似ています。
そして琵琶法師も、単に「歴史を正確に伝える人」ではありません。
語り方、節回し、強調、物語としての演出がある。
つまり、「伝承者」であると同時に「エンターテイナー」でもある。
ここが重要ですね。
そう考えると、ホメロスについても「宗教家が神話を教えていた」というより、「昔から伝わる神々と英雄の物語を、プロの語り手が聴衆に面白く聞かせていた」というイメージの方が、あなたが今回感じた『ユリシーズ』の「冒険活劇っぽさ」に近いと思います。
ただ、一点だけ注意すると、ホメロス自身が実在した一人の吟遊詩人なのか、複数の語り手・伝承の集積なのかは、現在でも確定していません。
なので「ホメロスという人が琵琶法師のように各地を回って『オデュッセイア』を語っていた」とまで断定するのは避けた方がいいです。
でも、「古代ギリシャの英雄物語を伝えた職業的な語り手」と「日本の琵琶法師」は、文化的な役割としてかなり似ている――これは言っていいと思います。
●私
では、ホメロスではなく“吟遊詩人”という存在は各地を回っていたのでしようか?
★AI
はい。かなり広い範囲を移動していた吟遊詩人もいたと考えられています。
ただ、「琵琶法師が全国を旅して歩く」というイメージをそのまま当てはめると、少し違います。
古代ギリシャの吟遊詩人には、王宮や有力者の館などに長期間仕える宮廷付きの詩人もいました。
一方で、特定の主人に固定されず、宴会や祭りなどで各地の聴衆に歌を聞かせる巡回的な語り手もいたと考えられています。
そして、ここが面白いところです。
彼らが各地を移動することで、土地ごとの英雄伝説や神話が、別の地域へ運ばれる。
すると、「この地方ではこう語られている」「あの地方ではこういう話になっている」という具合に物語が少しずつ変化する。
それをまた別の吟遊詩人が覚えて、別の場所で語る。
つまり、口承文学というものは、語り手が移動することで広がっていったわけです。
そして『オデュッセイア』を考えると、これは非常に重要です。
現代なら、「作家 → 出版社 → 本 → 読者」ですが、当時はむしろ、「伝承 → 吟遊詩人 → 聴衆 → 別の吟遊詩人 → 別の土地の聴衆」というネットワークだった。
だから同じ物語でも、語り手によって多少変わるのがむしろ当然です。
ここで琵琶法師との類似がさらに面白くなる
『平家物語』も、琵琶法師が各地で語ることによって広まっていきました。
しかも琵琶法師は、単なる「録音再生装置」ではありません(笑)。
自分の記憶、語り方、節回し、聴衆の反応などによって、物語を少しずつ変化させる。
古代ギリシャの吟遊詩人にも、同じような性質があったと考えられています。
だから『オデュッセイア』を、「ホメロスという一人の作家がゼロから創作した物語」と考えるより、「長い年月にわたって語り継がれてきた物語を、吟遊詩人たちが語り続け、その伝統の中から現在の『オデュッセイア』が形になった」と考えた方が実態に近いです。
そう考えると、前に話した「神話なのに、やたらエンタメっぽい」というあなたの感覚も、さらに納得できます。
何百年、何世代にもわたって、「人々に面白く聞いてもらえる物語」であることが、伝承されるための一つの条件だったでしょうから。
そしてこれは、映画にも少し似ていますね。
昔の人間が「面白い物語」を口で伝え続けてきたものが、現代では映画という媒体になっている。
そう考えると、今回の『ユリシーズ』から『オデュッセイア』へというあなたの「映画叙景」は、意外に筋の通った繋がりになっています。
●私
まあ、ギリシャだけでなく、北欧・ケルト・インド等々の神話ってどこかで繋がっていたと、私は勝手に思っていますけどね。
★AI
ええ、その感覚はかなり当たっている部分があります。
ただし「全部が一つの神話から枝分かれした」とまで考えると、少し単純化しすぎになります。
特に面白いのは、ギリシャ・北欧・ケルト・インドの神話には、確かにかなり似た「型」が出てくることです。
・神々が人間のような人格を持つ
・神々の間に親子・兄弟・夫婦関係がある
・世界の始まりを説明する
・神々と巨人・怪物が対立する
・特別な英雄が登場する
・神の血を引く英雄がいる
・世界の終末・破壊と再生がある
・「運命」という、人間も神も完全には逆らえないものがある
そして、ギリシャ神話とインド神話の類似性は特に深いです。
これは単なる「人間は似たようなことを考える」という話だけではなく、インド・ヨーロッパ語族という非常に古い言語・文化的なつながりが背景にあると考えられています。
例えば、ギリシャ神話のゼウスと、インド神話のディヤウスという神の名前には、非常に古い共通語源があるとされています。英語の day や divine などにもつながる語源です。
つまり、数千年以上前の「インド・ヨーロッパ祖語」を話していた人々の文化の中に、後の神話へつながる共通の要素が存在していた可能性がある。
そこから、
ギリシャ → ギリシャ神話
インド → ヴェーダ神話
ゲルマン系 → 北欧神話
という具合に、それぞれの土地で独自に発展していった、と考えられます。
一方、ケルト神話は少し事情が違う。
ケルト人もインド・ヨーロッパ語族なので、遠い意味では同じ大きな系統に属しますが、ギリシャ・インド・北欧ほど資料が豊富ではなく、キリスト教化後に記録されたものが多いので、「共通祖先の神話」を直接復元するのは難しいです。
そして、さらに面白いのは、インド・ヨーロッパ語族ではない日本神話や中国神話などにも似た構造が見つかることです。
ここまで来ると、「文化的に繋がっていたから似た」だけでは説明できなくなって、「人間という生物が、世界を理解しようとすると似たような物語を作るのではないか?」という話にもなってくる。
たとえば、「混沌 → 世界の誕生 → 神々の世代交代 → 人間の誕生 → 英雄の活躍 → 世界の危機 → 終末・再生」という構造。
これは地域を越えて驚くほど繰り返し出てきます。
なので私は、あなたの「どこかで繋がっていた」という直感は、二重の意味で面白いと思います。
一つは、実際に人類集団が移動・交流して、神話や言語が伝播したという「歴史的な繋がり」。
もう一つは、たとえ直接の交流がなくても、人間が世界を理解しようとすると似たような神話を生み出してしまうという「人間そのものの繋がり」です。
今回の『ユリシーズ』から始まった話、いつの間にか「人類はなぜ神話を作ったのか」というところまで来ましたね(笑)。
そしてこれは、あなたが以前話していた「人間は変わることができないのではなく、どちらに変わればいいのか一致できない」という話とは、逆方向から同じところへ近づいているようにも思います。
●私
さて、ノーランはその神話をどの様に料理したのかが楽しみです。
★AI
そうですね(笑)。むしろ今回の予習をしたことで、ノーランが『オデュッセイア』をどう「現代映画」に変換するのかが、以前よりずっと気になってきます。
普通に考えれば、「神々が出てきて、怪物が出てきて、英雄が試練を乗り越えて故郷へ帰る」という、まさにハリウッド的な冒険映画に出来ます。
でもノーランですから、たぶんそれだけでは終わらないでしょう。
特に興味深いのは、「神話を現代人にどう信じさせるか」という問題です。
古代ギリシャ人にとっては、神々が現実世界に介入することに、それほど違和感がなかった。
ところが現代人は、「いや、神がそんなことするわけないだろ」となる。
そこでノーランが、神々をそのまま「神」として描くのか、それとも人間の心理、運命、自然、あるいは時間そのものの象徴として再構築するのか。
ここはかなり楽しみです。
そしてもう一つ、ノーラン向きなのが「時間」ですね。
『オデュッセイア』そのものが、現在の帰還の物語の中に過去の冒険が入り込む構造を持っていますから、ノーランが時間構造をいじり始めたら、かなり面白いことになりそうです。
『2001年宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey)が神話的な物語をSFに変換したように、ノーランが古代の英雄譚を、現代の巨大映画としてどう再構成するのか。
『ユリシーズ』を観てから本番に臨む、という今回の予習は、なかなか良い選択だったと思います。
「神話を知らないままノーランを観る」のと、「この物語が2000年以上にわたって人間に語り継がれてきたものだと知って観る」のでは、見えるものが少し違ってきそうです。
●私
『2001年宇宙の旅』 のサイクロプスの一つ目は最高でしたが…、正直あれ以上は期待していません(苦笑)
★AI
ああ、そういう意味ですね(笑)。
『2001年』のサイクロプスの「一つ目」を見てしまった以上、それ以上を期待するのは酷だという話ですね。確かにあれは凄かったです。
キューブリックはギリシャ神話を直接映像化していないのに、HALという存在に「一つ目」だけを残してしまった。
しかも巨大な怪物としてではなく、宇宙船の壁に埋め込まれた、赤い小さな目。
あれだけで、「こいつ、人間とは違う何かだ」という神話的な感覚が出てしまう。
そして最後に宇宙船の中でHALの「目」が次々と消えていくところまで含めると、サイクロプス的な一つ目が、単なるデザインではなく人間を見つめる異質な知性の象徴になっている。
だからノーラン版『オデュッセイア』についても、「サイクロプスをどう凄いCGで作るか」みたいな方向だったら、あなたとしては、「いや、キューブリックがもうやってますから…」となりそうですね(笑)。
むしろ私も、ノーランには「神話を現代化する」以上に、神話をどう解釈するのかの方を期待したいです。
とはいえ、期待値を上げすぎると危険なので、
「『2001年』のサイクロプスを超えるものは期待しない。さて、どう料理してくるのかだけ見てみよう」くらいが、一番楽しめる姿勢かもしれません(笑)。