政治家も教員も、規模は違えど権力を振るえる立場にあります。
権力者は、自分の存在が誰かにプレッシャーを与える可能性が大きいことを認識して、自分を戒めることが必要です。
自分の肩書きを利用するために誰かがすり寄ってくるだろうことに対しても自覚的でなければなりません。

それは陳情を吟味して適切に対応することとは全く違います。

この時点でもうすでに安倍氏は首相としての自分の立場をわきまえていないとしか言えません。
彼自身が被害者というのは安易な見方です。

より深い関与があったかどうかはこれから検証されるのでしょうが、いまの時点でも問題がありますし、そこから学べることもあります。

以下が本題です。

学校の教員も、児童生徒に対して権力を振るえる立場にあることを自覚しているでしょうか。

指導の結果として教員が慕われたり、感謝されたりすることはあるでしょう。
子どもが好きだから(理由)教員になるのでしょうが、子どもに好かれるために(目的)教員になるのではありません。

子ども達が教員に好かれるために、学習活動に努力しているのではないかというようであれば、教員の側が諫めるべきです。
「それは方向が違うよ、自分の成長を認めようよ、ともに学びを楽しもうよ」と示すことが必要です。
「私はこの学びの場に責任がある教員だから、あなたのこれの行為は見過ごせない、こうした方が良いと思いますよ」ということがあっても、「(成績をつける)私の言うことが聞けないのか ! 」「先生の言うことに従っていれば(学校での立場がよくなって)得をするよ」という態度ではいけません。

こんなことを重ねているから、権力者におもねる人が後を絶たないのです。
森友学園事件における公務員の姿勢はなくならないわけです。
彼らも政治家の口利きがあったとしても、それに翻弄されてはいけないのです。
公共の福祉(ちょっと変な言い回しですね)に反します。
(もちろん、彼らは大人なので、若い時の教育のせいばかりにしてはいけません。その認識を改める必要がないまま、安易に過ごしてきたという責任もあります)。

そう考えると、塾には節度のある教員が多いように思います。
自分が好かれたからそれでよしと自分中心に考えるのではなく、生徒に学力を付けることが目的が達成されたかどうかという視点がぶれないように思えるのです。

子どもたちが塾や予備校で解放されるのは、個別の生徒が必要とする内容を教授する方法が優れていることだけでなく、教員自身が自分を相対化して見ることができているという点にもあるように感じます。
(学校の教員の中には子どもの何もかもよく知っているような口ぶりの人がいます。塾の教員はそういう尊大な見方はあまりしません。これも子どもたちがほっとする理由の一つになるでしょう。今回の話とはずれるので別の機会に書きます)。

児童・生徒が教員を一人の人間として尊敬するとすれば、教員も児童・生徒を一人の人間として尊敬するということです。

子ども達の発達段階を考えると、特に、中学以下の児童・生徒に対する場合、教員が権力で生徒を操作していないかどうか、自覚的でありたいものです。

教育は未来をつくる子ども達に、悪い影響も与えますが、良い影響も与えることができます。
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