●護良親王の描いた政治は… | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。


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写真は、鎌倉宮宝物殿の護良親王騎馬像
高さ7尺5寸という。

  
「かつて宗尊親王が皇族将軍になった(1252)ごとく、自ら将軍となり公家と武家を束ねる国のかたちとしたい」と護良親王


「それでは武家がまとめられぬ。武家の足利がまずは将軍となってこそ…」と尊氏


「いや、かつての皇親政の時代こそ、この国のかたち」と後醍醐天皇


さらに、「北条の執権・得宗政治の夢よもう一度!」と北条一族残党


三つ巴どころか、四つ巴の「国のかたち」が混沌たる建武の時代…。

私はこのときからを「第一次戦国時代」の始まりなどと説明している。

 

元弘3(1331)年から3年余。
よく後醍醐天皇を守り北条軍と戦った護良親王だったが、あまりに血気盛んで、天皇とも、また足利尊氏とも対立反目した。


天皇も尊氏も親王もみな、北条を倒すときにはあんなに一致結束していたのに。

いつの時代も、権力をつかんだら、つかんだ後がまた大変。

 

ついに親王は皇位を奪おうとしたなどの疑いをかけられ捕縛され、身柄は尊氏に預けられた。
そして土牢に。

護良親王御事績」によれば、「親王は斬りつけられた刃を噛み折った」と、その無念さを記している。

親王の墓所は、鎌倉宮からすぐ北東の裏手の山。

写真左の正面の石段をスタート。
登りきるとしばらく平坦な道を進むのが写真左
すると正面に、「まだ石段が!」


   
 
長い、それにしても長~い石段をさらに登るのが写真下左。
「頼むぅ、もう…」
すると石段は左に曲がって、右手に門扉が!
「あぁ、ついに、やっと!」
その奥に親王の墓塔が写真下右。
   
 金色の菊の御紋章が目立つ。
あたりは森閑・厳粛・静寂・濃い緑、奥深い所、高い所。
しばしたたずむ、いや動けないのだ。
足がもう。


それにしても石段が長い、急。あまりに急

何度やめて降って戻ろうと立ち止まったことか。

しかし「ええい、行くぞ!こうなりゃ行く!」


最初は石段数を数えていたが足がもう限界。

墓参した人のサイトには、石段160とか100とかあるが、200以上と私は思ったが。

ともあれ達成感。護良親王墓へぜひ!

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