『宇宙の仕組みの根底とは、自己認識の仕組みである。』


能動は、自由自在なる想像からの創造を為し得ますが、それは世界に「能動のみ」であるならば、悪く言えば「自己満足」に終始してしまうわけです。

能動のみであれば、あらゆる創造は既知のことでしかなく、無限の創造を為しても、その創造されたもの自身である以上は、初めから全て在ると言えるのであるし、何も始まってもいないとも言えるわけです。


自由自在な創造に於いて、唯一欠けている事とは、創造を受け止める、と言う創造の外の出来事です。

創造そのもので在る限り、創造されしものを受け止める事は原理的に不可能な事ですからね。


創造それは、既知でなく、由来の分からない状態にあって受動されて、初めてその「創造行為」の存在を認識させ得る訳ですから。


つまりギフトである事とは、知らされていない・・サプライズなどと言われますが・・それ故に感嘆を持って受け取られるモノゴトだと言える訳です。


何時何分に誰々からこの様な理由でこの様な事柄が・・それを先に知っていては贈り物の醍醐味は半減していくでしょうね。


能動の創造行為は送り出す側として、送られる側が存在していなくては、成立さえしません。

例えるなら音楽や舞台が、観客不在で成し得るか、と言う事でもあり、芸術性が送り手と受け手の相補的な関係性を無視して、何ものも産み出し得るか?となってくる気が致します。


クドクドと申しましたが・・神の創造行為に於いて、人間の受け取りが同時的で無ければ、全ての行為に意味など生じ得ないのだから、人間と言う存在とは、神にとって無くてはならない同等の存在だったのだ、と言う事を確認したい訳なのです。


しかし能動としては、実にアクロバティックな行為です。何故ならば、全ての存在とは能動の内にしか成し得ないからです。


どう言う意味かと言えば、受動を創造の外に置こうとしても、創造の外など何処にもある訳が無いし、全ての存在者は存在からしかもたらせられないのですから。


言い換えれば受動それ自身も、能動からしかやってこれない・・と言う事なのですから、真の意味で受動とは成し得ないと言わざるおえないわけです。


しかし、受動を為し得なければ・・能動の行為は全く無意味なままなのですから、何としてもこのアクロバティックな事を為し得なければ、存在は無いと言う事と変わりません。


それが、常にお話ししております、能動として採った道とは、自らを分割し、能動の片割れは、自らの能動の記憶を消しさってしまうと言う能動力を発揮する事に至ったのではなかろうか・・と言う洞察になる訳です。


能動力を以ってして、受動を実現した訳です。

自己の由来も知らず解らず、突如として現出した眼前世界の由来も知り得ない、受動としての目覚め・・・

そのかつて能動であった、出自を解さぬ受動存在・・・それが私達人間、の事であると。


私達人間とは、見えている世界の最も小さき者である、と言う感覚は人類共通なものだと思われますが、実はそもそも能動が為り成ったのが私達人間、と言う事を振り返ると、私達とは世界そのものでもあり、最も大きな存在でもあった・・その様に見なくてはなりません。


この能動のアクロバティックな、自らが受動と化した能動自体が、かつて能動に於いて創造した世界を、その由来の不明なまま受け止めて、それを体験する事にこそ、創造行為へ創造の意味を付与する、言い換えれば『世界に生命を吹き込む』、と言う構図が、私達人間と世界との関係性に在る、そう言う事を皆さんと共有して行きたいわけです。


それが人間をして世界で最も大きな存在でもある、と言う「円心」の理解との接続でもあり、人間は儚く脆く無意味と感じるのも能動・受動の関係性の構造からは必然的でありますが、同時に裏側に於いて、最も大きく無限の価値と力を有しているものでもあったのだ・・・と。


そしてこの人間の立ち位置の再発見を、観念的にお題目を唱えるのではなくて、数学的幾何学的、物理的量子的、哲学的信仰的、全てのアプローチに於いて、確かにそう言う構造に人間は生きているのだな・・、と言う確認を「身体」を通して共有認識と為していく、その様な試みかなと自分では思っているのです。


そう言う共振共鳴の生き様、として生命の遊びの輪(ようきゆさん)を広げていく、その取り組みをもってして、これからどの様な変化変動を物質世界が迎えようが、これから何が眼前世界に起きてこようが、思いもせぬ人生展開と為ろうが、私達人間は「永遠の中に既に生きている」事を自明として在り続けていく、ひとのみち(祕十の満ち)に活きる、と言う事だとも言えると思っています。


既に死を超克しつつ(即身成仏)全き信頼の内(安心立命)に生命を自由自在に謳歌・堪能し、誰もが確実に迎える彼岸への「予期せぬ旅立ち」へ、妙なる0(れい)に在り有って、生命の次なる扉を開くのに微塵も躊躇はなき「せいてん(晴点)」の心の神生(じんせい)へ・・・


その土台としての「物質・所有概念自体の解体」を量子的世界観より導き出して、神の創造の名において物質の本性を知り切って、私達人間自らの本性に「畏敬の念」をもって、存在世界へ真の寄与を為すに至ること・・・


それが、『あなたが豊潤なら、世界もまた豊潤である・・・』と言う、人間賛歌を歌い上げる背景だと言う事になります。


世界を真に豊潤に化す在り方とは、農と芸では無いだろうか・・と言う私の主張の意味もここに在ります。

農は食に繋がるわけですが、真に豊潤に至る食とは、人間による喜の生産であり、神は人間の生産する喜を食べて、更にまた人間に豊穣をもたらす、喜の大循環を意味しています。


創造行為を人間が受け取り、世界を贈り物として受け取って歓喜弥栄する。そこに創造されたモノには人間により生命が付与され、意味がもたらされ、存在世界は妙なる成長を為して、また人間へ創造を送り出すわけです。


その媒介が芸術であり、豊穣への感謝恩報が極まって、歌い舞い、詠い描く、諸々の歓喜弥栄が、芸術性の根底にあるのでは無いだろうか、その様に世界と人間との関係性を考えているわけです。


人間とはこの様な構図の中で、世界を永遠に維新していく、『新生の力能そのもの』である・・、能動の自作自演、見るものと見られるものの一致、能動自らの『自己観察のシステム』が、この存在世界の本質なのではなかろうか・・・と言う洞察を、実際に顕れている事実を、一つ一つ、その事実の認識をもって確認していく作業だとも言える、その様に思っております。


果たしてこの円心の描き出す能動のエンターテイメントの理解が、何を私達にもたらすのか?

それは未知数であり、確たるものは現段階には示せているか・・定かではありません。

それにも関わらず、現在のところ、数十人の方々が、面白がって注目して下さっている事実は、私には大変重く有り難い事であります。


先日の九州の第2回目を終えて、主催されたはやかわ正子さん曰く、「この(九州の会に)参加者の皆さんは良いチームだと今回思いました。」と、場の一体感を感じての感想を述べていらっしゃいました。


その一体感をもたらした背景には、他ならない主催のはやかわさんの、尽きない母性であろうと思うところでして、会場の用意から、心尽くしのお料理の数々を早朝からご用意され、そこからもたらされた親族の集まりの様なお昼ご飯の和気あいあいさと、美味しさ嬉しさいっぱいの笑顔が溢れた充実感無くして、今回の良き集いは成り立っていませんでした。


それが実際のところ、はやかわ正子さんの息づくところが、既に彼岸のヒトである事と関係が在る様に私には思え、豊穣な場所性に常に住んでいる方の為さることは、能動そのものであるからこそ、関わりのご縁の方に、歓喜弥栄を意図もせずに伝搬され得るのだな、と感服した次第です。


それだからこそ、九州の地にあって、奈良から訳のわからないオジさん・・どうやら天使の輪を持っているそうですが(笑)・・の話しをちょっと聴いてみようなんてことは、間違い無くはやかわさんのお人柄無くして誰が聴きに来られるものですかね・・・(笑)


今回の2回目にも、皆さんほぼご参加頂けたことは、真に驚くべき事であり、参加人数が減らず、今回から参加の方が新しくいらっしゃいましたことも含めて、会を作って下さったご縁の方々に深く感謝致します。


「遊戯」の本領を発揮して、ますますニコニコの集いになれば良いなと、感謝感激の内に終わらせて頂く事が出来ました。

参加して下さいました皆様、遠方からお見守り頂きました皆様、今回も誠にありがとうございました。

コトとバを皆様と共に成長させていけますように。