百姓一揆は「革命を目指した階級闘争」ではなかった | 何かおかしいよね、今の日本。

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国際派日本人養成講座よりの転載です。

No.1214 百姓一揆は「革命を目指した階級闘争」ではなかった: 国際派日本人養成講座 (jog-net.jp)

 

■1.「戦後の日本史研究者の願望」

 近年の歴史学は、江戸時代の文書の実証的な研究などで、我々が学校で教わった百姓一揆とはずいぶん違った姿を描いています。

 東京書籍版の中学歴史教科書では江戸時代の一揆について次のように記述していました。

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 18世紀になると、農村では多くの村が団結して、領主に年貢の軽減や不正を働く代官の交代などを要求する百姓一揆を起こし、大名の城下に押し寄せることもありました。[東書]
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 この記述からは、領主は農民に過重な年貢を課し、代官は不正を働いて農民をさらに搾取していた。その搾取と戦ったのが、農民の百姓一揆であった、という歴史観が、中学生の頭の中に刷り込まれます。現象としては事実を記述しているのですが、捉え方が一面的です。最近の歴史書を読むと、次のような指摘が目を引きます。

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 前近代の一揆が『階級闘争』であるという主張は、事実に基づくものではなく、戦後の日本史研究者の願望によるものである。つまり、そう信じたかった、というだけの話なのである。[呉座勇一・国際日本文化研究センター助教『一揆の原理』2012]

 かつては、百姓一揆を研究すれば、いつかは、歴史のなかで革命を希求してきた変革主体としての『人民』に出会えるはずだという思いが、人々を研究にかき立てた。しかし、それは幻想に過ぎないことが明らかになった。[若尾政希・一橋大学大学院教授『百姓一揆』2018]

 江戸時代を世界に例をみないきびしい近世封建社会として独立させることに研究のエネルギーをそそいでしまった。そのため、生産社会の変化の実態をほとんど視野に入れることができなかった。[田中圭一・筑波大学教授『百姓の江戸時代』2000]
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 百姓一揆が「革命のための階級闘争」であったという歴史観は、「戦後の日本史研究者の願望」にすぎなかった、というなんとも強烈な指摘です。そして東書の記述は、まだその「願望」が教科書の中には生き残っているようです。本稿では、最近の実証的な歴史研究が百姓一揆をどのように描き出しているのかを見ておきましょう。


■2.代官所を廃止させ、奉行をクビにした一揆

 田中圭一教授の『百姓の江戸時代』では、佐渡における一揆の具体例を、当時の文章を引用しながら紹介しています。その一つとして、1760年代に起きた「明和の一揆」を見ておきましょう。明和3(1766)年7月、佐渡は大洪水に見舞われました。その年、低地にある3つの村から奉行所に嘆願書が出されました。

 年貢米を代官所に収めたところ、米俵の縄・俵が粗末で受け取れないと拒否された。縄・瓦を取り替えて治めたところ、今度は米の質が悪いということで戻された。そこで悪米を一粒一粒選んで取りさり、納め直したところ、

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御蔵奉行の谷田又四郎様は俵を開いて米を御蔵の土庭に引き開けてしまわれた。それはいかにも無慈悲な仕打ちである。この上は江戸表に出向いて幕府に直訴をさせてもらいたい。[田中、p180]
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 佐渡は幕府の直轄領でしたが、通常の奉行所の他に、代官所が設けられていました。幕閣の一部に、奉行所が百姓と妥協しがちなので、年貢の賦課・徴収をもっと厳しくすべしという意見があり、幕府の勘定奉行所の直轄機関として設置されたのです。現代で言えば通常行政を行う県庁の他に、国直轄の徴税機関が設けられたようなものです。

 代官所の長の谷田は、「幕府を甘く見るな」と見せしめのために、非情な行為を行なったのでした。百姓たちは、自分たちが汗水垂らして作った米を土庭にばらまくという谷田の「無慈悲な仕打ち」に怒り、江戸に直訴したいと奉行所に訴えたのです。もちろん直訴は許されませんでした。

 百姓たちの怒りは治まりません。その年の10月の終わりに村々に回状が回りました。来たる11月4日六ツ時(午前6時)から、佐渡国中の男子15歳以上50歳までのものは代官所に向かい、谷田の屋敷と代官所の建物を打ち壊そう、というのです。武具(刀、槍、脇差し)の所持は固く禁じ、うちこわしの対象は谷田の屋敷と代官所の建物に絞っていました。

 5日には150人ほどの農民が代官所近くの寺の境内に集まり始めました。奉行所の役人がやって来て、彼らに説得を続けます。6日には農民たちはポツポツと帰っていきました。何が話し合われたかは文書には残っていませんが、その後の幕府の処置を見れば、農民たちの要求が大方聞き入れられたことが窺われます。

 奉行所は明和4年の年貢については、翌5年3月まで延納を認めました。明和7年、奉行谷田又四郎は江戸に召し替えされ、代官所も廃止されました。同じ年、一揆の責任者として、訴状を作成した寺の住職一人のみが斬罪に処せられました。百姓は罪を問われなかったのは、奉行所も事を荒立てたくなかったからです。

 

 

■3.「百姓成立」は領主の責任

 この一つの逸話から、百姓たちがどのような思いで一揆を起こそうとしたのかが窺えます。それは決して「幕府の圧政を革命で覆そう」ということではありませんでした。百姓たちが怒ったのは、谷田の「無慈悲な仕打ち」であり、それが正され、奉行所の思いやりのある政治すなわち「仁政」が復活すれば、それで納得して引き下がったのです。

 当時の幕府も藩も百姓も、あるべき政治については一つの合意したかたちがありました。領主は百姓の生活が成り立つ(当時の言葉で「百姓成立」)よう保障する責務があり、百姓はそれに応えて年貢を「皆済」(すべて納めること)する義務があるという、双務的なかたちでした。これを現代の歴史学者は「仁政イデオロギー」と呼んでいます。

 現代の政府が国民の生活を守り、国民は税金を納めるというかたちと本質的には同じです。「百姓成立」とは現代の基本的人権に通じる考えなのです。

 そして幕府や藩が、腐敗や失政によって「百姓成立」の責務を果たさない場合には、百姓は一揆によって抗議し、その原因が取り除かれれば満足して一揆を止める。そういう体制内の抗議だからこそ百姓一揆は武器を持って人命を損なうことを固く禁じ、打ちこわしの対象を明確にしていたのです。

 江戸時代に発生した百姓一揆は1430件[若尾、960]。そのうち一揆が竹槍で役人を殺害した事例はわずか一件にすぎません[呉座、231] 鍬や鋤は暴動のためではなく、「百姓のシンボル」であり、「自分たちが百姓身分を逸脱していない」というアピールであったと考えられています。

 これが一揆の本質でした。国民を搾取する権力者を暴力で打倒しようという革命運動とは似て非なるものです。

 その形だけ似たところに注目して、一揆を「革命を目指した階級闘争としたい願望」のもとに、戦後の歴史研究者が研究を積み重ねたわけですが、いくら研究しても「革命を希求してきた変革主体としての『人民』」の姿は見つからなかった、というのが冒頭で紹介した3人の歴史学者の結論なのです。

 しかし今の歴史教科書は、いまだに、この時代遅れの、間違いと分かった「願望」によって書かれている、という状況なのです。


■4.「農民は天下の御百姓」

 領主は「百姓成立」の責務を持つという考え方が、どの程度、統治者や一般民衆の間に広まっていたのかを示す事例があります。天保7(1836)年、三河国加茂郡(現在の豊田市)で一揆が起こり、挙母藩や岡崎藩の出兵によって鎮圧され、首謀者の辰蔵が捕らえられました。辰蔵は取り調べの場で、こう述べたと記録されています。

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昔から「農民は天下の御百姓」と申しますから、お上にも御大切に御取り扱いいただかなくてはなりません。武器をお使いになった結果、百姓に怪我でもあったら、たいへん残念なことではありませんか。[呉座、373]
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 百姓を大切に扱うことが「お上」の義務なのに、武力で鎮圧して百姓に怪我でもさせたら、その義務はどうなったのか、と批判しているのです。「農民は天下の御百姓」が、取り調べる藩の方にも否定しがたい建前であるからこそ、それを逆手にとった、したたかな発言ができたのです。


■5.一揆は百姓たちの交渉カード

「農民は天下の御百姓」とは単なるスローガンではなく、実際の幕府の統治の根幹にあった考え方のようです。その発端として徳川家康は慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられると、最初の法令として「郷村法令」を出しました。

 藩の行政に不正があったら、幕府の代官や奉行所ヘ届けた上で直目安(家康への直接の訴状)を出してよい。しかし、幕府代官の不正については、そうした届け出無しに直接、直目安を出して良いとして、農民に藩や幕府代官の不正を訴える権利を認めたものです。

 実際に、幕府は「百姓成立」の義務を全うしない藩主に対しては、厳しく処分していました。たとえば、会津藩四十万石を治めていた加藤明成が、年貢率の引き上げ、無地高(土地がないのに石高だけある)の押しつけなどで百姓を苦しめていたところに、寛永19(1642)年の凶作が襲いました。

 二千人の百姓たちが一斉に「田畑を捨て、妻子を連れ、隣国に奔ること大水流のごとく」逃散を始めました。その状況が隣国から幕府に注進され、加藤氏は翌年に改易(領地没収)されました。

 幕府がこのように厳しい態度をとっていたので、藩主にとってみれば、領内の百姓に一揆を起こされたら、それは「百姓成立」の責務を全うしていない証拠と疑われる恐れがありました。そこで、冒頭の佐渡の例にも見られるように、極力、穏便に済ませようとしたのです。

 こうして見ると、江戸時代の領主は好きなように百姓を搾取できる権力者などではありませんでした。百姓たちは「百姓成立は領主の責任」という幕府の統治原則を盾にして、一揆で領主を不正や暴政を牽制・抗議する対抗カードを持っていたのです。


■6.仁政エネルギーはどこから来たのか?

「百姓成立」を見事に果たして「美政」であると、幕府から三度も表彰されたのが、米沢藩でした。藩主の上杉家は藩内の経済開発に努め、天明の大飢饉で平年の二割ほどに米作が落ち込んでも、備蓄米を活用して死者を一人も出さず、他藩からの難民も救いました。[JOG(130)]

 その「美政」の基礎を築いた第9代藩主・上杉鷹山(ようざん)は家訓として「伝国の辞」を残し、その一節に「国家人民の為に立(たて)たる君にて」と記しています。君主は国家人民のために尽くすのが責務であるという、まさに仁政イデオロギーを語った言葉です。

 この言葉から思い起こされるのは、神武天皇の建国宣言とも言うべき、「恭(つつし)みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おおみたから)を鎭(しず)むべし」(謹んで皇位につき、大切な人民を安んじよう)」という言葉です。人民を「大御宝(おおみたから)」とし、その人民が安寧に暮らせるようにするために皇位に就くと言われているのです。

 上杉鷹山が語っている家訓は、神武天皇の建国宣言と同じ思想だと言ってもよいでしょう。しかし、両者は二千年ほども離れています。両者の精神はどこかで繋がっているのでしょうか。


■7.『太平記』の楠木正成が結びつけた仁政と尊皇

 若尾教授は、仁政イデオロギーが社会全体に広まった要因の一つに、『太平記』の影響があることを明らかにしています。『太平記』の主人公・楠木正成は、私利私欲で世を乱している北条氏を倒して民を救おうとされた後醍醐天皇に無私の忠誠を尽くして、鎌倉幕府と戦います。[JOG(1147)]

 その天才的な軍略家ぶりが『太平記』の中心的なストーリーとなっているのですが、もともとは摂津・河内の領主で見事な仁政を行っていました。あちこちにため池を掘らせて多くの新田を開発し、農民に種子を百分の一だけ利息をとって貸し与え、翌年には米の三十分の一だけ税として納めさせました。

 こうした仁政を伝え聞いて、領地には諸国から農民が流入して、人口が急増しました。農民たちは正成を慕い、湊川の戦いで戦死すると、まるで家族を失ったように嘆き悲しんだ、といいます。

 江戸時代の初めには『太平記評判秘伝理尽鈔(りじんしょう)』という講釈が現れます。戦国時代の乱世を治め、泰平の世を築こうという時期に、正成の生き方を「名君」のあり方として説きました。大藩の藩主たちや幕閣が、『理尽鈔』の講釈を受けたことが記録に残っています。

 やがて出版が普及すると『理尽鈔』も書籍となって、広く読まれるようになります。また「太平記読み」という講釈師も現れて、一般民衆も講談で親しむようになりました。歌舞伎や浄瑠璃の作品にもなります。仁政家としての楠木正成像は、仁政イデオロギーを朝野に広め、各藩の仁政が江戸日本の高度な経済発展を招きました。

 同時に、忠臣としての楠木正成像は、水戸藩二代目藩主・徳川光圀(みつくに、水戸黄門)が正成の自刃の地、今日の湊川神社境内に「嗚呼(ああ)忠臣楠子之墓」を建て、さらに『大日本史』を編纂させ、そこから水戸学の尊皇思想が成立して、明治維新の原動力となりました。

 江戸の経済発展と、尊皇思想が両輪となって、世界史に残る明治日本の急速な近代化の原動力になったのです。一揆を「革命を目指した階級闘争にしたい」などと、西洋直輸入の色眼鏡を通してしか歴史を見ない態度では、こうした我が先人たちのダイナミックな足跡は目に入らないのです。

 

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