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ねずさんのブログよりの転載です。

http://nezu3344.com/blog-entry-4284.html

 

他国の憲法を遵守し日本の法と秩序に従わず、その他国の徴兵にすら応じないような者は、少なくとも日本の国民ではないし、また彼らの祖国の国籍を持ちながら徴兵にさえ応じないなら、彼の国の国民ともいえません。いかにお金持ちになろうと、そういう人々は、世界中どこに行っても、単に卑怯で小ずるい、日本社会への寄生虫でしかない。

 

 

第二次世界大戦中の米国陸軍に日系アメリカ人のみで編成された部隊がありました。
通称「442部隊」、正式名称は「第442連隊戦闘団(英:442nd Regimental Combat Team)」といいます。
ヨーロッパ戦線に投入されて勇戦敢闘し、のべ死傷者数9486人という激闘を果たし、獲得した名誉勲章は21です。

名誉勲章は、米軍における最高の栄誉で、21という数は米国史上、最多の叙勲です。
他にも、陸軍殊勲十字章が52、銀星章が560、勲功章22、陸軍軍人章15、銅星章4000、樫葉賞が1200、名誉戦傷章9486、大統領部隊感状7枚の褒章を受けています。これまた圧倒的な数です。

なかでも第442連隊として7枚目の「大統領部隊感状」は、トルーマン大統領が、自らの手で連隊旗に括り付けました。
これまた米国陸軍において初めての出来事です。
また、ひとつの連隊で7枚という数字も合衆国陸軍で過去最多受賞です。

部隊の編成は昭和18年です。
大東亜戦争のさなかのことです。
この年の2月に、日系人による連隊規模の部隊の編制が発表されたとき、米国在住の約1万人の日系人が応募に殺到しました。
募集定員は、1500名です。

いくら定員だからといっても、殺到した日本人たちは、どうしても部隊に参加させろと言って聞かない。
日ごろ従順な日系人にしては、めずらしいことです。
米軍の警備兵が、いくら殴ろうが叩こうが怒鳴ろうが、選んでくれるまで帰らないというのです。

やむなく米軍は定員を1000人増やし、2500名とするのだけれど、それでも収拾がつかない。
こうして442部隊は、応募者全員の中から、屈強な若者3800名の連隊として発足したのです。

そうして編成された連隊は、敵国である日本人の兵隊ですから、最激戦地に派遣されました。
このため戦死が相次ぎ、追加募集が行われた結果、当初応募した全員が戦地に派遣されています。
つまり、1500名の枠に応募した1万人が、最終的にほぼ全員、戦地に赴いたのです。

 

442部隊の発足に関しては、そもそものところからお話をすすめる必要があります。
ハワイ王国が滅亡の危機に瀕したとき、ハワイ国王の要請で、明治18年(1885)に、日本人2万5000人がハワイに入植しました。
当時のハワイの人口は5万7000人です。
もともと30万人いた人口が、白人の襲来によって、わずかの間に約6万人にまで減ってしまっていました。

ハワイの滅亡を案じた国王は、明治天皇に日本人のハワイ入植を依頼しました。
天皇はお断りなされたのだけれど、民間で入植団が組まれ、その結果2万5000人がハワイに向かったのです。

そして日系人たちが、二世・三世となり、ハワイでの生活にすっかりなじんだ昭和16年(1941)12月、日本と米国が戦争に突入しました。
この時点で、ハワイは米国の領土ではありません。
ひらたくいえば、米国に一方的に統治された「地域」でした。
圧倒的な国力・軍事力の差があったとき、武力を持たない小国に住む人々は、勝手に土地を奪われ、強国に蹂躙され支配され、食料や物資、労働力を徴発されるのです。

徴発される武力のない国に「独立自尊」はありません。
意思も人格もプライドも私有財産も認められない。
それが「支配される」ということです。
国際社会は甘くないのです。

ハワイはこうして白人たちに土地の3分の2を奪われ、国家としての独立も個人の財産もなにもかもが奪われました。
そしてハワイは、人口の8割を失って、わずか5万7000人が住む島となっていたのです。
そのままいけばハワイの人々は、南米の国々と同じように全員白人種との混血になってしまう。

このことを心配したハワイ国王が選んだのが、日本人の入植であったのです。
理由は一般には、日本が同じ東洋系の人種であり、しかも日本が東亜最後の独立国として立派に戦い、世界の強国の仲間入りを果たしているからであったとされていますが、実はもうひとつあります。
これはハワイのみならず、南方の島々から中南米にかけての伝説であり、日本ではほとんど紹介されることがないことですが、彼らの大昔からの伝誦では、「自分たちは日本から渡ってきた」と信じられていました。
ですからもともとの倭種である日本人の入植は、いわば親族身内を引き入れることであり、結果として、生き残ったハワイの民衆も守られると考えられたのです。
加えて世界の強国のひとつである日本人がいることで、米国人は他の領有地でのような横暴な振る舞いができなくなる。

すこし脱線してみます。
イベリア半島からやってきた食い詰め者の冒険者たちは、エルドラド(黄金郷)の夢に取りつかれて、南米に単身でやってきました。
そしてあり余った精力を、先住民族に対する殺戮と強姦に向けました。
結果、南米人に純粋種は絶滅し、白人種との混血種だけがいま、生き残っています。

ちなみに南米諸国は、おおきく3つに大別されます。
ひとつは、エクアドルやペルー、ボリビアなどのように、先住民族との混血エリア。
ふたつめは、アルゼンチン、ウルグアイのような、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されたエリア。
このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮の対象にあったエリアです。
みっつめは、黒人奴隷の輸入が人種構成を複雑なものにしたブラジルです。

ブラジルの場合、コーヒーの農園主たちは、最初先住民族を奴隷化しようとしたのです。
ところが先住民たちは、すぐにジャングルの密林の中に逃亡してしまう。
そこでブラジルの自然環境になじみがなく、肌の色ですぐに奴隷と識別できる黒人をアフリカから大量に運び込んだのです。
こうして国土を蹂躙された南米人たちは、いまだに極度の貧困と流民に悩まされ続けています。

比較的経済が発展しているといわれるブラジルにしても、遊休地があると、そこにある日突然流民たちがやってきて巨大なスラムを形成します。
もちろん所有権や建築に絡む一切の法は、すべて無視されます。
夜が明けると、突然、無数のバラックが出現するのです。
これを「ファーベラ」といいます。

ファーベラは、政府も取り締まりができません。
なぜなら、ファーベラを下手に取り締まると、貧困民たちが暴徒化し、収拾がつかなくなるからです。
貧困に悩むファーベラでは、女たちは16歳になったら娼婦にならないと食べていけない。
そしてそんな彼ら、彼女らにとっての年に一度のお楽しみが、リオのカーニバルです。

カーニバルは、ファーベラごとに山車が出ます。
山車の上では、半裸の若い女性たちがサンバを踊ります。
山車に乗るのは、ファーベラに来て1年未満の男女です。
彼らは、山車の上で裸を晒し、踊り明かすことで、はじめてファーベラの一員、仲間として認められます。
少し考えたら誰にでもわかることですが、胸や肌を晒すことは、世界中どこの国のどのような民族でも、若い女性たちにとっては、つらいし、いやなことです。
リオのカーニバルのあの派手な衣装の裏には、そういう事情もあるのです。

日本人は、ある程度純血種を保ちながら、いまだに日本文化を濃厚に残し、日本語を話し、歌舞伎や文楽、能、日舞などの伝統芸能などを濃厚に残しています。
個人が私有財産を持ち、平和に暮らしています。
これは、明治、大正、昭和と、私たちの祖父、曾祖父たちが、この国を守るために必死に戦ってくれたおかげです。
このことを、私たちはもっと理解する必要があるし、本来ならしっかりと子どもたちの教育にいかすべきことです。

さて、ハワイに話を戻します。

南米の実情を知るハワイの王様にしてみれば、こうした当時の世界の状況の中で、ハワイの独立をいかに保つか、ハワイの人々の暮らしをいかにして守るかは、たいへん大きな悩みであり、課題だったわけです。
そして、日本人の入植を大歓迎して招き入れました。

そうしたなか、米国がハワイの女王に圧力をかけて無理やり退位を迫ったとき、東郷平八郎が戦艦を率いてハワイ国王の警護に赴きました。
このため米艦隊も、手荒な真似はできなかったのですが、そうはいってもハワイの民衆を米国人の人質にとられていたのです。
結果、ハワイ国王は退位することになりました。
この退位のとき、ハワイのリリ・カウア女王が、ハワイの人々の幸せな暮らしを忘れないでと作詞作曲したのが、有名な「アロハ・オエ」です。

強国日本を背景にした日系人がいるハワイに、大東亜戦争の開戦によって、米国は牙を剥きだしました。
昭和17(1942)年2月には、アメリカ西海岸に居住していた日系人約12万人の全財産を没収し、全米10か所の強制収容所に入れてしまいます。

世界中、誰がどうみても、財産没収、強制収容は、米国の横暴です。
ですが米国にしてみれば、長年、目の上のタンコブだったハワイの日系人を葬るには、これがチャンスだったのです。

日本政府は、世界に向けて、米国の日系人財産没収と強制収用を糾弾しました。
米国は世界の非難を横道にそらすため、日系人による戦闘部隊の編成を決定しました。
要するに日系人を米国民として処遇しているというポーズをとろうとしたのです。
それが、昭和18(1943)年2月の、日系人による連隊規模の部隊の編制でした。

強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始まったとき、日系人たちは、米国と日本と、2つの祖国の狭間に悩みました。
そこに東條英機首相の手紙がもたらされました。
そこには、
「日系人は、
 祖国アメリカに
 忠誠を尽くしなさい」
と書いてありました。

祖国アメリカのために忠誠を尽くすとなれば、もしかすると日系人と日本人が干戈(かんか)を交えることになるかもしれない。
それでも、いま住んでいる国に忠誠を尽くせという東條英機の手紙は、まさに武士道の極みとしての手紙でした。

これによって、日系人たちの意思は固まりました。
そしていざ、部隊の募集が始まったときの状況が、冒頭の状況です。

厳しい訓練ののち、部隊編制が発表されました。
部隊名は第442連隊と決められました。
歩兵連隊を中核に、砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団です。

昭和18(1943)年9月、訓練を終えた442部隊はイタリアのサレルノに上陸しました。
29日には、はやくもドイツ軍と遭遇し、そこで初の戦死者を出しています。
昭和19(1944)年1月から2月にかけては、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防を行いました。
同年5月のローマ南方の防衛線では、「カエサル・ライン」を突破。
ローマへの進撃の途上で、激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘でも大奮戦しました。

442部隊は、多大な犠牲を払いながらローマを目指したのです。
ところが連戦に次ぐ連戦で、多大な犠牲を払いながらいよいよローマに入場となったとき、442部隊に停止命令が出されました。
そして後からやってきた白人部隊がローマに入城し、ローマ入城とローマ解放の栄誉を手にしました。

一方442部隊は昭和19(1944)年9月、フランスへ移動しました。
10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘。
ブリュイエールの街を攻ブリュイエールの町の通りには、「第442連隊通り」という名の道があります。
そこですさまじい激戦があったのです。

442部隊は、こうして多大な犠牲を払って奮戦しながらも、一切の名誉は与えられないという情況が続きました。
転機が訪れたのは、この年の10月のことです。
米国第34師団テキサス州兵によって編成されていたテキサス大隊が、ドイツ軍に包囲されるという事件が起きたのです。

すでに2万人の米軍がテキサス部隊救出に赴き、死んでいました。
それでもドイツ軍の重包囲はビクともしません。
テキサス大隊は“救出困難”とされ、テキサス大隊は「失われた大隊」 (Lost battalion) とまで呼ばれてしまっていました。
ようするに、もはや救出困難と見切りをつけざるを得ない状況になっていたのです。

442部隊に下された命令は、そのテキサス大隊の救出命令でした。
なにもかもを行ったあげく全てが失敗に帰し、最後に捨て駒だった日系人部隊を放り込んだわけです。
死ぬとわかっている戦いです。
それを強制するため、文句を言わせないように命令はフランクリン・ルーズベルト大統領による直命であるとされました。

2万人を投じてもダメだったのです。
それを、わずか3000名の部隊に委ねたのです。
そのためには、それなりの権威が必要だったのです。

442部隊は、その時点でフランス東部の山岳地帯で戦いをしていました。
戦いの途中で、休養も与えられないまま移動した彼らは、その日のうちにボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げました。

激闘は1週間続きました。
そして442部隊は、ついにテキサス大隊を救出してしまうのです。

逸話があります。
救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだそうです。
このとき、テキサス大隊のバーンズ少佐が、
「ジャップ部隊なのか」と言ったのです。

これに442部隊の一少尉が怒っりました。
「俺たちは
 アメリカ陸軍442部隊だ。
 言い直せっ!」

その迫力に、バーンズ少佐は謝罪して敬礼しました。

この作戦の2週間後、11月11日の第一次世界大戦休戦記念日に、ダールキスト米陸軍少将が442部隊を閲兵しました。
集合した戦闘団を見て、ダールキスト少将が不機嫌になりました。
「部隊全員を整列させろといったはずだ!」
442部隊の連隊長代理が答えました。
「目の前に並ぶ兵が全員です。」
442部隊は、211名のテキサス大隊奪還作戦で、約2800名いた兵員が1400名に減少していたのです。

この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになりました。
歴史に残る激戦だったのです。

米本土の日系人強制収容所から、補充兵が送られ、再編成を行った442部隊は、ドイツへと移動しました。
そして戦闘の末、ミュンヘン近郊にあるドイツ軍のダッハウの強制収容所の解放を行いました。
しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は、なんと平成4(1992)年まで、公にされませんでした。

それでも、そういう重要な事実を隠されてでも、442部隊は、米国史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊となりました。

442部隊には、別名があります。
「名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)」というものです。
それだけ多くの死傷者を出した部隊だったのです。

結局、442部隊は、わずか2年弱の活動期間の中で、総計1万8千もの勲章や賞を受けています。
こうした輝かしい武功をあげながら、戦争終了後も、アメリカ白人の日系人に対する人種差別は変わりません。
戦争が終わり、442部隊が解散して米国本土に復員すると、そこで兵士たちを待っていたのは
「ジャップを許すな」
「ジャップおことわり」
といった米社会の冷たい言葉でした。
激しい偏見によって、復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれました。

このような反日系人的な世論が変化するのは、昭和30年代も後半になってからのことでした。
この頃、米国内での人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになったのです。

日系人は3つのイメージで語られました。

1 きれい好き
2 礼儀ただしく約束を守る
3 442部隊の勇猛さ


ジャパンタウンは、とても清潔でした。
このことは米国社会において、他のタウンと比較してもきわめて特徴的といわれていました。

米国に行くと、よく「黒人お断り」というレストラン等を目にします。
実際、彼らは、シャワーを浴びないせいか、かなりにおうことが多々あります。
上品なレストランでは、ホームレスのようなすさまじいニオイの客がはいってきたら、やはり、困るのです。
黒人差別というけれど、やはり、彼らの側にも何らかの反省点はあるような気がします。

また中華街は、中華街は独自性が濃厚すぎて白人社会に受け入れられない。
コリアタウンは、凶暴で危ない。
このためコリアンたちは、日本人だと偽ってジャパンタウンに進出し、結果いまではジャパンタウンは、コリアンの住む街になっています。

さて、第二次大戦後にいったん解体した442部隊は、昭和43(1968)年に、再編成されました。
なぜかというと、ベトナム戦争が始まったからです。
また平成17(2005)年3月には、ハワイ州兵大隊の一つとして、イラク戦争に従軍しています。
442部隊の伝統を受け続ぐ米国日系人たちは、いまだに、勇敢に闘い続けているのです。

古代、都市国家形成からスタートしたヨーロッパ、アメリカの文化には、古くからのひとつの大原則があります。
それは、
「市民を守るために戦う者にのみ
 市民権があたえられる」

という大原則です。

ここでいう市民とは、都市国家市民であり、現代社会では転じて、国家を指します。
つまり自国を守る者にのみ、国民としての権利が与えられるのです。
言い換えれば、日本に住み、日本の歴史、文化、伝統を踏まえ、日本を守るために戦う者こそが日本国民だというのが、世界の常識であるということです。

他国の憲法を遵守し日本の法と秩序に従わず、その他国の徴兵にすら応じないような者は、少なくとも日本の国民ではないし、また彼らの祖国の国籍を持ちながら徴兵にさえ応じないなら、彼の国の国民ともいえません。
いかにお金持ちになろうと、そういう人々は、世界中どこに行っても、単に卑怯で小ずるい、日本社会への寄生虫でしかないのです。

血統が日本人だから日本人というのも、狭義には間違っています。
日本を愛し、日本の歴史、文化、伝統を愛し、日本を守るために戦うのが日本人です。
先祖が日本人であっても、日本がイヤなら、日本から出て行けばよいし、外国人なら自分の国に帰れば良いのです。
なにも日本にいてもらう必要はない。

激戦を戦い抜いた日系人たちは、もちろん米国軍人として戦いました。
同時に、彼らひとりひとりの心の内には、「人種差別撤廃のために戦う」という、日本人としての熱い誇りと自覚」がありました。

アフガニスタンは、国土のほとんどが標高5千メートルを超える禿山で、わずかに南部の一部だけが平野部となっている国です。
そのアフガンの民は、ソ連が来襲したとき、アフガンの民としての誇りをかけて戦いました。
そして200万の命を犠牲にして、ソ連を追い返しました。

このことが世界の2大強国とされたソ連を内部崩壊に導き、ソ連に支配された東欧諸国の民の心に火をつけ、結果としてソ連を崩壊させ、東欧諸国の独立を果たす原動力にもつながっています。
たとえ小国といえども、誇りを賭けて戦う民は強いのです。

負けるな日本人!
負けるな日本の魂!

最後に、この442部隊についての映画を撮られた監督からのメッセージを転載します。

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【監督からのメッセージ】

442連隊はアメリカでの日系史を語る時、外す事の出来ない重要なテーマである。
それは、彼ら兵士が自らの血を戦場で流す事で、アメリカ人としての国家への忠誠と愛国心を示し、今まで尊敬されることの少なかった日系人の地位を、飛躍的に向上させたからである。
現在の日系人の地位がある程度アメリカ国内で認識されているのは、彼らの活躍なしには考えられなかったであろう。
そうした彼らのヒロイックで素晴らしい活躍と人種差別との闘いを描いた映画は数々作られて来た。
アメリカに住んで8年になる自分が、自らのアメリカでの日本人としてのアイデンティティを考える時、日系史は大いに示唆を与えてくれるものだった。
そう言う中で、442連隊の映画を作りたいという思いが沸き上がって来たのである。
しかし、敢えて日本人である私が今まで何本も作られて来た442連隊について何かを付け足すことが可能だろうかと色々悩んだのも事実である。
当然、彼らの抱えた痛みや辛さは日系人ではない自分には遠いものである。
それだけでなく、本当に日系人の気持ちを理解しているのかという疑問や日系人の歴史的な知識がどこまで十分なのかという自分自身への不安もあった。
しかし、これらの不安や疑問を押しのけてこの映画を作ろうと思わせたのは、前作「東洋宮武が覗いた時代」を見た多くの二世や三世の方からの励ましであった。
今まで戦時中の強制収容所を描いた映画は数多いが、多面的な視点から日系史を俯瞰した映画は少なかった。その中で、この映画は、敢えてそうした視点をとり、偏った見方ではなく日系史を描いたとして、多くの支持を頂いたのは望外のことであった。
恐らく442連隊の映画でも、同様に多面的な視点から、自分が日系人でないだけにより客観的に描けるものも多いのではないかということを、前作の映画は教えてくれたのである。
自分自身がアメリカの日系社会に何らかのお世話になりながら生活していることなどを思い、少しでも日系コミュニティに貢献出来る映画を作れるなら、映画監督としての自分も意義を見いだせるだろうと考えて、敢えてこの映画を作ろうと決意した次第である。

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