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ねずさんのブログよりの転載です。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1789.html#more

 


何かおかしいよね、今の日本。

 

 

明治4(1871)年といえば、廃藩置県の行われた年です。
廃藩置県というのは、学校では多くの場合「旧来の藩が廃止されて県となりました」と、いとも簡単な記述で終わっているのですが、実はこれはものすごくたいへんなことです。

なにせ全国にある260もの藩がなくなるということは、260の大名がその身分を失い、さらに全国に194万人いた武士が失業するという事態です。
本来、明治維新は、階級としては武士階級が命がけで行った大改革です。西洋でもどこでも、改革をなしたなら、その改革者たちが、新しい政権を作ります。

ところが日本では、その改革をなした武士階級が、みずから四民平等と称してその身分的特権を捨てたのみならず、全国260の大名までが、藩の解体にすすんで協力したわけです。
しかもこの大改革に、一滴の血もながれていない。
これこそ、世界史的にみれば、不思議の国ニッポンとしかいいようがない大事件です。

しかも廃藩置県のわずか4日後の明治4(1871)年7月18日には、文部省が創設され、その文部省は翌年1月には新しい「学制」案の大綱をつくり、8月2日には旧来の教育制度を抜本的に一新する「学制」の公布まで行っています。


 

 

 
「学制」というのは、学校制度のことです。
「学制」が公布されたときの太政官布告があります。
「学制序文」と呼ばれるものです。

この内容を読むと、戦前の教育が何を目指していたのかがよくわかります。

いつものように、ねず流で口語訳をしてみます。
教育勅語が出るより、18年も前のものです。

当時の日本が、子供達の教育に、何を求め、子供達に何を教育しようとしていたのか、この文を読むとはっきりとわかります。
戦前の教育と、いまの教育の雲泥の差の中味の違いが、ここにはっきり書かれています。

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学事奨励に関するおおせだされ書(学制序文)
太政官布告第214号(明治5年8月2日)

人々がその身を立て、自分の財産をきちんと管理し、その仕事を盛んにして、その生涯をまっとうできるのは、ひとえに身を修め、知識をひろめ、才能や技術を伸ばすことによります。そのために学制を定めます。

日常やふだんの行いや、言葉遣い、書道や算数をはじめ、役人や農商業、あるいはさまざまな工業や技術芸術、および法律や政治、天文、医療などにいたるまで、普通の人が生きるうえで、学問は、あらゆる場合に必要です。

なぜなら人は、それぞれの才能に応じて勉強することで、はじめて生活を支え、資産を築くことができるからです。
学ばずに身を立てたり、財を築くことができる人など、この世にいるのでしょうか?*1

*1 ここ、大事なところです。昨今の日教組教育などでは、子供達は生まれながらにして才をもっており、道徳や学問は教えるのではなく、子供達が生まれながらにもっているものを内側から引出すものだという幻想のうえに立っています。けれど実際には、野球をするには始めにそのルールを覚えなければならないように、何をするにもまず最初の教育、つまり教え、学ばせることが必要なのです。そのことを「学制序文」は「誰カ學ハスシテ可ナランヤ」と明確に切り捨てているのです。

世の中には、路頭に迷い、飢餓におちいり、家を破産させ我が身を滅ぼすような人たちがいます。
そうした人たちは、まさに「学ぶ」ことをしなかったことによって、人生を誤った人たちです。

学校そのものは、わが国に昔からあるものです。
けれど、いつの頃からか、学ぶべき方向を間違え、言っていることはもっともらしいけれど、中味はただの空理空論でしかなく、実社会で何の役にもたたないような虚談にばかりうつつをぬかすような学校ができてきました。
そのような学校は、およそ実社会で何の役にもたたないものです。

また、学問は武士だけのもので農工商や女性については学ぶことすらさせないとかいう議論も、そもそも学問とはどういうものかを、まるでわかっていない議論です。
そういうものこそ、旧来の陋習(ろうしゅう)というべきものです。
そんなことをしているから、貧乏や破産や、財を失うものが出てしまうのです。*2

*2 左翼的思想や日教組教育が蔓延し、それがわが国教育の「常識」となり、その誤った「常識」で育った人間が、日本の実社会の中心となったとき、日本は長い不況におちいり、ついには民主党のような売国政党まで誕生させ、国内景気は最悪となり、破産や自殺、貧困が日本を覆うようになってしまっています。まさにここに書かれている通りです。

このたび、文部省において、新たに「学制」を定めました。
内容は、これから先、まだまだ強化していきます。

みなさんにお願いしたいのは、これから一般の国民は、華族、武士、農民、職人、商人、あるいは男女の区別さえもいっさいへだたりなく、町でも村でも家庭でも、学校で学ばないものなど、ひとりもいないようにする、ということです。

ご父兄のみなさんは、この趣旨をよく理解し、お子さんたちへの愛情をさらに厚くして、子供達を必ず学校に通わせなさい。*3
もちろん高度な学問については、その教育を受ける受けないの判断は、それぞれのご判断におまかせします。
けれど、幼年教育については、男女の別なく、全児童を学校に通わせなければなりません。
それが親の責務というものです。

*3 登校拒否なんてありえないわけです。

学問は国家のためにするものだから、学費やその他、学校に通うことによって生ずる費用は、すべて官費で賄えという者もいるようです。まさに旧弊というべきです。官費が出ないなら子供に学ばせないよ、などと言い出す者もいるようです。
けれどそういうことは許しません。
以後日本国民は、自ら奮って学校で学ぶものだと心得なさい。

右の通り仰せ出だされましたので、地方官においては、片田舎の身分の低い者にいたるまで、この趣旨が国民全員に洩れなく伝わるよう、学制の意味を詳しく各人に申し、諭(さと)し、文部省の規則に従って、学問が普及するよう努力しなさい。

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本文は以上です。

一読しておわかりと思いますが、明治のはじめの、富国強兵を図ろうとする国家が作成した「学制」でありながら、そこには「お国のために」などということは、ひとことも書いてありません。

むしろ、そういう考えに立つこと自体が、旧弊であり、貧乏したり破産したりする原因だとさえ述べています(是即チ沿襲ノ習弊ニシテ文明普ネカラス才藝ノ長セスシテ貧乏破産喪家ノ徒多キ所以ナリ)。

どういうことかというと、「学問」と称して、愚にもつかない空理空論を並べ立て、何のたしにもならない批判のための批判や評論をくりかえし、屁理屈ばかりで現実を見ない・・・それって、まるで昔の支那、朝鮮の役人や、昨今の評論家そのもののですが・・・のは、そもそも学問の何たるかをまるでわかっていない、過ちであると、はっきりと斬り捨てているわけです(畢竟不學ヨリシテカヽル過チヲ生スルナリ)。

これが明治以降の、日本の教育の原点です。
すごいと思いませんか?
国民=公民=皇民です。
その皇民のために、国家はある、という大前提にあるから、こうした考え方が普通にできるのです。
ここまでのことを言っている学制は、この時代、日本だけです。

思うのですけれど、たとえば歴史教育を、私達と直接血のつながった祖先たちの生き生きした活躍の流れとして教えたりしないで、ただの年号や人名事件名の丸暗記ものという無味乾燥な授業にしてみたり、道徳の授業を廃止したり、珠算をないがしろにして算数の能力を落したり(珠算をすると暗算がものすごく早くなります)、植物や食べ物のことを教えなかったり、あるいは戦前あったように「稲村の火」の物語を通じて、地震のあとには津波が来るということを幼いうちから教えなかったり。

その一方で、何も教えなくたって、子供達が成人すれば、自然とちゃんとできるようになる男女の性について、くどくどとわざわざ時間を作ってまで教えたり。

それって、なんのための学校なのでしょう。
なんのために、私達は「学ぶ」のでしょう。

私達は、日本の教育の原点を、もういちど、しっかりと見据え、戦後日本の教育を歪めてきた一切を、学校教育からも、メディアからも取り払わなければならないといえるのではないでしょうか。
でなければ、到底、日本を取り戻すことはできない。

前々から、中山成彬先生がおっしゃる、日教組を叩き潰すということを、公職追放を含めて完全実施していく必要が、わたしは、ある、と思っています。


《原文》
學事獎勵ニ關スル被仰出書 (學制序文)
太政官布告第二百十四號(明治五壬申年八月二日)

人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ
身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スルニヨルナリ
而テ其身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スルハ學ニアラサレハ能ハス
是レ學校ノ設アル所以ニシテ日用常行言語書算ヲ初メ士官農商百工技藝及ヒ法律政治天文醫療等ニ至ル迄凡人ノ營ムトコロノ事學アラサルハナシ
人能ク其才ノアル所ニ應シ勉勵シテ之ニ從事シ而シテ後初テ生ヲ治メ産ヲ興シ業ヲ昌ニスルヲ得ヘシサレハ學問ハ身ヲ立ルノ財本共云ヘキ者ニシテ、人タルモノ誰カ學ハスシテ可ナランヤ
夫ノ道路ニ迷ヒ飢餓ニ陷リ家ヲ破リ身ヲ喪ノ徒ノ如キハ、畢竟不學ヨリシテカヽル過チヲ生スルナリ
從來學校ノ設アリテヨリ年ヲ歴ルコト久シト雖トモ或ハ其道ヲ得サルヨリシテ人其方向ヲ誤リ學問ハ士人以上ノ事トシ農工商及ヒ婦女子ニ至ツテハ之ヲ度外ニヲキ學問ノ何物タルヲ辨セス
又士人以上ノ稀ニ學フ者モ動モスレハ國家ノ爲ニスト唱ヘ身ヲ立ルノ基タルヲ知ラスシテ或ハ詞章記誦ノ末ニ趨リ空理虚談ノ途ニ陷リ其論高尚ニ似タリト雖トモ之ヲ身ニ行ヒ事ニ施スコト能ハサルモノ少カラス
是即チ沿襲ノ習弊ニシテ文明普ネカラス才藝ノ長セスシテ貧乏破産喪家ノ徒多キ所以ナリ
是故ニ人タルモノハ學ハスンハ有ヘカラス
之ヲ學フニハ宜シク其旨ヲ誤ルヘカラス
之ニ依テ今般文部省ニ於テ學制ヲ定メ追々敎則ヲモ改正シ布告ニ及フヘキニツキ自今以後一般ノ人民華士族卒農工商及婦女子必ス邑ニ不學ノ戸ナク家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス
人ノ父兄タル者宜シク此意ヲ體認シ其愛育ノ情ヲ厚クシ其子弟ヲシテ必ス學ニ從事セシメサルヘカラサルモノナリ
高上ノ學ニ至テハ其人ノ材能ニ任カスト雖トモ幼童ノ子弟ハ男女ノ別ナク小學ニ從事セシメサルモノハ其父兄ノ越度タルヘキ事
但從來沿襲ノ弊學問ハ士人以上ノ事トシ國家ノ爲ニスト唱フルヲ以テ學費及其衣食ノ用ニ至ル迄多ク官ニ依頼シ之ヲ給スルニ非サレハ學ハサル事ト思ヒ一生ヲ自棄スルモノ少カラス
是皆惑ヘルノ甚シキモノナリ
自今以後此等ノ弊ヲ改メ一般ノ人民他事ヲ抛チ自ラ奮テ必ス學ニ從事セシムヘキ樣心得ヘキ事
右之通被仰出候條地方官ニ於テ邊隅小民ニ至ル迄不洩樣便宜解譯ヲ加ヘ精細申諭文部省規則ニ隨ヒ學問普及致候樣方法ヲ設可施行事。
 

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