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猫も杓子も、海外旅行に出かける時代になった。もっとも、杓子といえば、今日の人々は言葉の意味を知らずに使っているが、賤妓や、私娼を指したから、差別語となる。

そのために、海外の観光地を取りあげたテレビ番組が多い。そんな番組のなかで、パリのセーヌ河のシテ島のノートルダム大寺院が映しだされた。

カメラが若い女性レポーターとともに、なかに入る。「雰囲気がとっても、荘厳なのにうたれまぁす」という、邪気のない声が重なった。

パック旅行の善男善女は、絵葉書のなかを動きまわって、ガイドのマニュアルどおりの案内を聞いて満されるから、それでよいだろう。団体で観光を楽しむためには、物事に昏いほうがよい。

フランス革命の意義

私は30代になった時に、はじめてノートルダム大寺院を訪れた。戦慄が走った。私は一瞬目を閉じて、1793年を想った。フランス革命だ。1789年にパリの民衆がバスティーユ監獄を襲撃したことは、よく知られている。その3年後に王制が廃止され、共和暦が採用された。

共和暦2年の1792年1月にルイ16世が処刑されると、翌年、恐怖政治が吹き荒れた。この年だけで30万人以上が逮捕され、1万7千人がギロチン台へ送られて処刑された。そのうえに、おびただしい数の国民が裁判なしに殺されるか、獄死した。

自由、平等、博愛は公を失った 

科学的合理主義をかざして、「自由、平等、博愛」の標語のもとで、全土にわたって恐怖政治が行われた。革命政権は神と伝統文化を否定した。神もギロチンにかけられた。

1793年に、バカバカしい「理性(フェット・ドゥ・)の(ラ・)祭典(レアゾン)」が頂点に達した。ノートルダム寺院が「理性の伽藍」と改名され、祭壇が壊された。そのかわりに模造の丘のうえに、「知性に捧げられた」ミニチュアのギリシア神殿が安置され、その右脇に裸身の「理知の女神」の像が赤白青の3色の布を巻いて立ち、左脇に「真実の炎」と呼ぶ常明灯がともされた。

私はパリの中心街を、好きになれない。凱旋門から整然と広い道路が、放射状に八方に伸びている。ここは、もともと貧民街だった。ナポレオン3世が革命を恐れて、軍隊をだして貧民窟を取り壊して、今日の姿となった。

フランス庭園も息が詰まって、くつろげない。無機的に、左右対称に設計されている。それよりも、イギリス庭園にはぬくもりがある。ロンドンも有機的に発達した、人間的な都市だ。

フランス革命は人間革命でなく勝者の利得のみだ

フランス革命は、人類史でおぞましい蛮行だった。その後のレーニンの革命、スターリニズム、毛沢東の手によっても数千万人が殺されたが、フランス革命が先き駆けとなった、身の毛がよだつ「理性の祭典」だった。

先きの敗戦によって、アメリカ占領軍は日本にフランス革命が謳歌した理性主義に基く、近代合理思想を強要した。

フランス革命は在来の宗教、道徳、倫理、規範を否定して、自由、平等、人権を神の座に据えた。もっとも、一時、キリスト教を抹殺したものの、教会はほどなくすると、ふたたび国民生活に溶け込んだ。

アメリカ軍は日本の伝統文化の理解が足らなかった

アメリカ軍は日本国民が先祖から受け継いできた生活を、頭から野蛮なものときめつけて、日本の文化を銃剣によって無残に破壊して、日本にフランス革命に発した非人間的な、科学的合理思想を植えつけることを試みた。多くの心ない日本国民が残念なことに、自国を卑下して迎合した。

私の母の寿満子は、日本銀行の幹部をへて、大正時代に日本興業銀行総裁をつとめた小野英二郎の末娘だった。英二郎はアメリカに留学して、明治20年(1887年)からミシガン大学大学院で財政学を学び、同校で日本人としてはじめて経済学の博士号を取得している。そんな家庭の環境から、寿満子は少女時代から英語に親しんだ。私の父は外務省に奉職して、先きの大戦前にロンドンに勤務した。寿満子はこのあいだオクスフォード大学で、聴講生として英文学を学んだ。

母の日記帳は心のよりどころ

私の手元に母が戦中、戦後にわたってつけた日記帳がある。敗戦のちょうど1ヶ月後の昭和20年9月14日に、「アメリカでは日本人を再教育せねばならないと、盛んに唱えてゐるが 第2の国民がつまらないアメリカの気風にかぶれたらそれこそ大変だ。私共の指導する責任は重い」と、綴っている。

そして、「23日前の新聞より毎日の様に戦争犯罪者のリストをあげ」ているが、「戦争の責任者とは申せ、同じ日本人」と憤り、「日本の社会生活は益々圧迫を受けようほど内的なしっかりとした心の準備が必要と思ふ。唯々勝つ国勝てなかった国そのための変化であって これは人間のやってゐること、人の魂まではアメリカでも裁判出来ぬ」と、ため息をついている。

この時、寿満子は31歳、私は8歳だった。おかげで、私はその後「つまらないアメリカの気風にかぶれ」ることも、粗雑な左翼思想に憑かれることもなかった。

真の民主主義は存在するものを第一義とする

アメリカ占領軍は民主主義の旗を高く翳して、それまで日本国民が誇ってきた歴史、神話、敬神崇祖の精神、伝統的、文化的な価値をいっさい破壊する政策を強行した。アメリカ人たちは愚かなことに、科学的合理主義を信奉して、日本民族の精神を根絶やしにすることに努めた。

個人の権利が至上の価値ではない

個人の権利が、至上の価値として鼓吹された。これは、日本国民と、家族のあいだを結んできた絆を、断ち切るものだった。その後、占領統治が終わっても、自由と個人の権利が何よりも重んじられたが、自由と個人の権利は人間の際限ない、卑しい欲望を尊ぶから、知足、共生、利他心といった道徳心と相容れない。

私は占領下の湘南の鎌倉で育った。近くに横浜で行われていた、いわゆるB級戦犯裁判のアメリカ人弁護士一家が、接収した住宅に住んでいた。私と同じ年頃の息子が2人いたので、じきに仲良くなった。私はイギリスからの帰国児だったから、戦時下でも、母や姉と家のなかでしばしば英語で話した。

そろそろ、キリスト教の復活祭がくる。ある時、アメリカ人の兄弟の兄が、得意気に「お前たち(ユー)ジャパニーズは山や、木を拝むが、フーリッシュ(愚しい)だ」と、いった。

私は母が国際教育の一環として、キリスト教会の日曜学校に通わされていたから、もし山や、木や、狐を拝むのがバカバカしいのなら、死んだイエスが天上に昇ったとか、処女マリアが孕んだのも、同じじゃないかといおうとしたが、アメリカ軍基地のなかの映画館によく連れていってくれて、アメリカ映画をみるのが楽しみだったから、黙っていた。

だが、今日でもアメリカの1ドル札には、絶対神の瞳と、「イン・ゴッド・ウィ・トラスト」(われらは唯一神を崇める)という標語が刷り込まれている。百万柱の神を拝もうが、唯一神を崇めようが、同じことではないか。

明治の教育は人を創った

母は少女時代から書を学んでいたので、戦後、アメリカに媚びて、新カナ遣いと当用漢字を採用したことと、数え年にかえて満で数えるようになったことを、「日本人は稲の生命に合わせて、毎年みんなで一緒に歳をとったのに」と、嘆いていた。

人権という妖怪を崇める近代合理主義は、今日では産みの親の西洋社会も苦しめるようになっている。天に向かって唾を吐いたのだ。

科学的合理主義は個人の飽くなき欲望を称えるために、強欲な経済社会をつくりだした。金融工学とか、マネーゲームといった、おぞましい魑魅魍魎が跋扈している。

人間社会が真当な徳目を共有することによって、支えられてきたのに、我欲を崇めることによって、社会が崩壊しようとしている。知を心のうえに置いた報いだ。

http://blog.kajika.net/?eid=1000622

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