原日本紀の復元034 倭の五王〈7〉菟道稚郎子が即位された痕跡を探る | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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 菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)が倭国王の讃である可能性についてみていきます。

 

 『日本書紀』の記述では、菟道稚郎子は応神天皇が崩御された後、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)と皇位を譲り合い、3年後に自殺されます。

 しかし、この記述には不自然な点も多く、従来から菟道稚郎子は仁徳天皇に攻め殺されたのではないかという説があります。さらに一歩進んで、天皇(当時の呼称は不明ですが)に即位されたのではないかと考える説もあります。

「原日本紀年表」をもとに時代をさかのぼって検証している私としては、菟道稚郎子の即位説を支持したいところです。それも、譲り合いによる空位期間などもなく、応神天皇崩御の翌年、菟道稚郎子が皇位を継いだと考えると、中国史書に残る倭の五王の記述と非常にうまく整合するのです。

 

 では、菟道稚郎子の事績を再掲しながら、即位された痕跡を探っていきたいと思います。

 

■菟道稚郎子に関する記述(再掲)

 

 まず最初に、

(1)応神天皇が早くから菟道稚郎子を皇太子としている

ということがあげられます。

 応神天皇40年(417年)の記事に、菟道稚郎子を正式に「嗣(ひつぎ)」(天皇位を継ぐ者の意)としたとありますが、菟道稚郎子は応神天皇15年(407年)に登場した時からすでに「太子」(皇太子のこと)とされています。そして、おそらく十代前半のころから、阿直岐(あちき)や王仁(わに)といった当時の最も優れた学者を師として付けられています。これはまさに、応神天皇が跡継ぎを菟道稚郎子と決めて帝王学を学ばせていると考えてよいでしょう。

 そして、菟道稚郎子もそれに答えて早くから頭角を現しています。応神28年(413年)には、高麗(こま)の王の上表文の無礼を直々にとがめられているのです。このように、応神天皇生存中から国政に関与されていた菟道稚郎子が、応神天皇が崩御されると一転、大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとされたというのはとても不自然です。

 また、皇位を譲り合っている最中に、異母兄の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が太子の菟道稚郎子を殺して「帝位を取ろう」と、数百の兵を挙げる逸話があります。皇位を辞退している菟道稚郎子を攻めるというのも奇妙な話ですが、その大山守皇子を討ち破った菟道稚郎子が、なおも皇位を固辞されているのも理解に苦しむ話です。

 

 

 次に、

(2)菟道稚郎子皇子が宮室(おおみや)を作っている。そして、海人が苞苴(おおにえ)を献上した

という記述があります。

 宮室とは天皇の宮のことであり、菟道稚郎子は菟道宮(うじのみや)を建ててそこにいらっしゃり、そこへ海人が苞苴を献上しています。菟道宮は、『山城国風土記』逸文によれば桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)とも呼ばれ、今の宇治上神社・宇治神社の辺りに造られたとされます。

 

【宇治上神社本殿】国宝で、世界遺産にも登録されています。

祭神は、応神天皇、仁徳天皇、菟道稚郎子。

本殿は1060年頃建立と考えられ、日本最古の神社建築とされています。

 

【宇治上神社拝殿】こちらは鎌倉時代の1215年ごろ建立されたと考えられています。

 

【宇治神社本殿】重要文化財に指定されています。

祭神は菟道稚郎子おひとりですが、その聡明さにあやかって学業の神様として崇められています。

 

 「おおにえ」は「大嘗(おおにえ/おおなめ)」のことであり、天皇への貢ぎ物として奉る立派な献上品のことです。大嘗祭(だいじょうさい)は天皇が即位後に初めて行われる新嘗祭(にいなめさい)で、一世一度の祭りとされます。ちなみに、来年も新天皇即位後、11月に執り行われることが決まっています。

 これらの記述は、菟道稚郎子を天皇として扱っているようにみえることから、即位されたことを暗示していると考えることもできそうです。

 

 さらに、

(3)菟道稚郎子の墓域が飛び抜けて大きい

という不可思議な記録があります。

 以下は、平安時代中期に編纂された『延喜諸陵寮式(えんぎしょりょうりょうしき)』にある陵墓についての記録です。

 

宇治墓。菟道稚郎皇子。在山城国宇治郡。兆域東西十二町。南北十二町。守戸三烟。

藤原時平ほか著『延喜式 第4』日本古典全集刊行会 昭和4年 国会図書館デジタルコレクションより

(訳)菟道稚郎子の宇治墓は山城国宇治郡にあり、その墓域は東西12町、南北12町で、三戸の墓守を置く。

 

 1町は約109メートルですから、東西南北12町は約1300メートル四方となります。世界最大の墓ともいわれる仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵)でさえ、同『延喜式』で「東西八町。南北八町。」とされますから、その墓域は約870メートル四方です。それをはるかにしのぐ大きさです。現在、菟道稚郎子の宇治墓は約80メートルの前方後円墳である丸山古墳に治定されていて、宇治の地に巨大な宇治墓はみつかっていません。しかし、平安時代には菟道稚郎子が史上最大規模の墓に葬られてしかるべき人物であったと認識されていたことは明らかです。ここにも、菟道稚郎子が即位されていた可能性が感じられます。

 

 そしてもう一つ、

(4)菟道稚郎子が「宇治天皇」と呼ばれていた

という事実です。

 これはまさに私の故郷である揖保郡(現たつの市:今も揖保郡太子町だけは存在します)とゆかりの深いもので、『播磨国風土記』の揖保郡(いぼのこおり)条に「宇治天皇」という天皇名が出てきます。

「宇治天皇の治世に、宇治連の遠祖、兄太加奈志(えたかなし)と弟太加奈志(おとたかなし)の二人が大田村の與富等(よふと)の地を請うた」とあり、この宇治天皇は菟道稚郎子のことであると、多くの先学が推断されています。

 つまり、風土記が編まれた時代には、菟道稚郎子が世の中を治めたという記憶が伝わっていたと考えられるのです。もちろん、そうすると記紀に「宇治天皇」の存在がみられないのには、何らかの理由があるということです。それについては追って考えていきたいと思います。

 

 ともあれ、以上みてきたように、菟道稚郎子皇子が天皇として即位された痕跡はかなり色濃く残っているのです。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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