原日本紀の復元033 倭の五王〈6〉新しき「讃」候補、菟道稚郎子 登場! | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
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 倭国王の興が允恭天皇(いんぎょうてんのう)、武が雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)であるということについては、一定程度論理的に検証できたのではないかと思っています。続けて、済について考えていきたいと思います。

 済は仁徳天皇(にんとくてんのう)だと思われますが、済について考察するには、それ以前の珍と讃についても総合的にみていかなければなりません。というのも、『日本書紀』の無事績年を除いた年表(以下、「原日本紀年表」)では、仁徳天皇の治世は422年〜450年となり、讃、珍、済すべての遣使年をカバーしているからです(図1)。

 

■図1 原日本紀年表と倭の五王の対比表

 

 『日本書紀』では、仁徳天皇の治世は87年という長期間に設定されていますが、無事績年を除いても29年にわたっています。この治世をそのまま認めてしまうと、中国の史書との整合性がとれません。必ず何かが隠されているはずだという信念で『日本書紀』を読み直すと、讃にぴったりと当てはまるのではないかという可能性をもった人物がいました。

 応神天皇(おうじんてんのう)と宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の間に生まれた菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)です。宮主宅媛の父は和珥臣(わにのおみ)の祖である日触使主(ひふれのおみ)とされます。応神天皇には、仁徳天皇(大鷦鷯天皇(おおさざきてんのう))をはじめ男女あわせて20人の子がおられたと記されています。ただし、実際に記されているのは19人です。(図2)

 

■図2 応神天皇の子女

 

【宇治墓(丸山古墳)】

宇治市の京阪宇治線「宇治駅」からほど近いところにある宇治墓(うじのはか)は、

宮内庁から菟道稚郎子の墓であると治定されています。

しかし、『日本書紀』では菟道稚郎子は菟道の山の上に葬られたとされていて、

宇治川東岸にある宇治墓とは記述が一致しません。

石碑には菟道稚郎子「尊」宇治墓と彫られています。

『日本書紀』では最も貴い方を「尊」というとされていますが、

この石碑が「尊」となっている経緯はわかりません。

 

 

 仁徳天皇は応神天皇の第4子とされますが、菟道稚郎子皇子が何番目の皇子であったかはわかりません。ただ、応神天皇は若くして畿内のさまざまな氏族と婚姻関係を結んでいるようにみえますので、仁徳天皇が本当に応神天皇の子であったとすると、それほど大きな年の差はなかったと思います(その辺りのことは、また応神天皇の考証の時に改めて考えます)。

 

 では、菟道稚郎子皇子が讃であった可能性について考えます。

 菟道稚郎子皇子に関する記述を、『日本書紀』の語る時系列にそってみていきます(図3)。

 

■図3 菟道稚郎子皇子に関する記述

 

 ここではまず、応神天皇と仁徳天皇の間に存在する空位期間について考えておきます。現在、「原日本紀年表」では、仁徳天皇元年は422年となっています。その前の空位の期間を2年とするか、3年とするかの問題です。

 

 『日本書紀』の記す干支で考えると、空位期間は2年となります。

 応神天皇即位の太歳は庚寅(かのえとら/こういん)とされているので、崩御された治世41年の干支は庚午(かのえうま/こうご)となります。そして、仁徳天皇即位の太歳は癸酉(みずのととり/きゆう)とされます。干支の順序は、庚午→辛未→壬申→癸酉となりますので、応神天皇崩御年と仁徳天皇即位年の間の空位年は2年ということになるのです。

 

 しかし、『日本書紀』の記事内容によれば、空位年は3年と考えなければなりません。

 記事は次のように記します。

 

(1)応神天皇が治世41年2月15日に崩御される。

(2)菟道稚郎子と大鷦鷯尊(仁徳天皇)が皇位を譲りあわれ、空位期間はすでに3年が経過した。

(3)菟道稚郎子が自殺される。

(4)仁徳天皇が治世元年の1月3日に即位される。

 

 確認しますと、応神天皇が崩御されて3年が経過したということは、菟道稚郎子が自殺されたのは3年後の2月以降ということです。その年の1月は過ぎているのです。すると、仁徳天皇が即位されたのは、菟道稚郎子が自殺された翌年ということになります。つまり、応神天皇崩御年と仁徳天皇即位年の間には3年間の空位期間が生じるのです。

原文では「既経三載」(すでに三載(みとせ)を経る)となっています。この「載」の数え方が、現在の「年」の数え方と異なるのであれば再考する必要があります。

 

 私は、基本的に干支にこだわらない立場ですから、記事内容から導かれる空位3年(応神天皇の崩御年は418年)として考証を進めたいと思います。ただし、この3年というのはあくまでも「原日本紀年表」での実年代を何年に設定するかという目安であり、私は空位は創作であり、応神天皇崩御の翌年(419年)に菟道稚郎子皇子が即位されたと考えています。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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