原日本紀の復元032 いま一度、無事績年を圧縮する年代復元法について | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 前回の記事「邪馬台国畿内説の都・纒向遺跡から出土した桃の種の年代報道について」のなかで「崇神天皇が4世紀初頭あたり」と書いたことについて、年代観に関するコメントをいただいておりましたので、今回はいま私が用いている年代復元法について改めてまとめてみました。私が色々なギミックでもって意図的に「崇神天皇を4世紀初頭あたり」に位置づけているのではないということはお分りいただけるかと思います。もちろん、それによって得られた実年代を他者に押しつける気はありません。さまざまな人が考える実にさまざまな年代観と同様、一つの仮説でしかないことはわきまえているつもりです。

 

 私は『日本書紀』の研究を始めるにあたって、まず延長された紀年を実年代に引き戻すのが、最初に行うべき作業だと考えました。

 江戸時代ならまだしも、考古学や中国史書の研究成果によって、現代では神武天皇が即位されたのが紀元前660年だったという『日本書紀』の記述は完全に否定されています。ですから、『日本書紀』に書かれた内容にある程度の信ぴょう性を認めて、日本の古代の姿を探究しようと思えば、どうしても紀年の復元が必要になるのです。

 

 もちろん、そんなことは私がいうまでもなく、あまたの先人がその課題に挑んできたわけです。その多くが突破口に選んだのが「干支」でした。『日本書紀』の太歳(たいさい)や『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)を駆使して、一運(いちうん:干支の一回り=60年)および二運引き下げるなどの操作をほどこし、真実の紀年にたどり着こうとしました。しかし、その試みはどこかで矛盾を生じ、最終的に万人が納得する結論は導き出せませんでした。そこで、二倍歴や四倍暦など新たな飛び道具も登場しますが、現在までにぴったりと整合性のとれた紀年は復元されていないと思います。

 

 そんな中で私が紀年復元へのアプローチ法として選んだのが、『日本書紀』に多く見られる事績の記されない年(私は「無事績年」としました)を機械的に詰めていく方法です。『日本書紀』には古代の天皇紀において無事績年が非常に多くありますが、それは紀年延長のために設けられたもの、言い換えればその過程で生じたものだと考えたからです。

 たとえば、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の治世は42年間だったと『日本書紀』は記していますが、事績の記された年は14年しかありません。治世24年目の事績を記したあとは治世42年の崩御年までまったく空白だったりします。その空白を機械的に詰めていって、允恭天皇の治世が14年だったとするのが、私の採用したアプローチ法の基本的な考え方です。

 

 私がこの「無事績年圧縮復元法(仮)」とでも呼べる方法をとったのには理由があります。

 まず、名だたる先学が干支を用いた復元を試みられましたが、それでも解答が得られていない状況であること。正直にいうと、これから『日本書紀』研究を始めようという私が、専門研究で名を残す先学たちと同様のアプローチ法でそれ以上の成果を得るということはありえないだろうという思いもありました。同じ道をたどるためには、その膨大な研究史を調べて理解するという作業も生じます。気が遠くなりそうです。

 

 もう一つは、『日本書紀』が当時の唐に向けて編纂された、漢文・編年体の史書であるということです。編年体の史書には『日本書紀』のように多くの無事績年がみられることはありません。

 『日本書紀』は、中国の歴史に対抗するために、神武天皇が紀元前660年に即位されたという伝統のある歴史を作りたかったのでしょう。そのために古代天皇の治世を大きく延長することによって、歴史を遡らせていったと考えられます。「その過程で生じた無事績年を除いて縮めていけば、元の状態に復元できるのではないか」と思ったのが直接のきっかけでした。

 

 ただ、大量の無事績年がそのまま残されるというのは、逆に不思議でもあるのです。普通に考えて、神武天皇を紀元前660年に遡らせるために紀年を延長するのであれば、架空の事績をどんどん創作して空白を埋めていけばよいのです。埋めれば埋めるほど各天皇の治世は真実味を帯びてくるはずです。実際、第2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第9代開化天皇(かいかてんのう)については、その事績の乏しさから実在を疑われ、「欠史八代(けっしはちだい)」の根拠とされたりしているのです。また同時に、紀年延長に際して、天皇の年齢をのばして100歳を超える天皇を頻出させるより、天皇の数を増やしていく方が説得力があると思います。信じられない長寿の天皇が続くことについては、想定読者である唐の皇族・役人も信ぴょう性を疑ったに違いありません。

 

 とはいえ、そんなことは『日本書紀』の編纂者も重々承知だったはずです。それでも、架空の事績で空白を埋めたり、架空の天皇の創出により紀年を延長しなかったのには、何か理由があるはずです。よい答えは思いつきませんが、『日本書紀』の紀年延長にあたっては最低限のルールがあったのではないかと思います。

通説となっているように、当時実権を握っていた藤原氏の意向は強く反映されたのだとは思いますが、『日本書紀』の原史料となった『帝紀(ていき)』や『旧辞(きゅうじ)』の内容について、一定以上改変してはならないというような禁止事項が決められていた可能性などです。

 それは、さすがに目に余る歴史のねつ造は他の氏族から大きな反発を買う可能性があったのかもしれませんし、原資料に対する畏敬の念があったからかもしれません。あるいは、祖先の歴史を冒涜して呪いを受けたくないという信仰心からだったかもしれません。後世に真実究明の途を残さなければならないという編纂者の良心からだったとするとすばらしいことですが。

 

 さて、そのような考えからアプローチ法を決め、『日本書紀』の紀年延長が行われる前の『原日本紀』復元に取りかかりました。復元といっても、原日本紀の紀年表は無事績年を削除するだけなので機械的に作成できます。私は、その紀年を検証・確認していくだけです。推古天皇(すいこてんのう)からさかのぼり始めて、欽明天皇(きんめいてんのう)についてはまだ保留ではありますが、現在、允恭天皇にまでさかのぼれています。

 ここまで確認作業をしてみて、最初に予想していた以上の手応えを感じています。先学に比べると、私が見ているはまだうわべだけなのは自覚しています。しかし、「原日本紀年表」に沿った形で、継体天皇(けいたいてんのう)朝と仁賢天皇(にんけんてんのう)・武烈天皇(ぶれつてんのう)朝の二王朝並立説が見えてきました。その基準年は百済(くだら)の武寧王(ぶねいおう)の墓から出土した墓誌の年代に求めました。

 また、隅田八幡(すだはちまん)人物画像鏡の銘文についても、論理的に破綻することなく仮説を組み立てられたと思います。

 そして直近では、倭王武が雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)であり、興が允恭天皇であることも、論理的に説明できたのではないでしょうか。

 

 今回のアプローチ法では、はなから干支を最重視しないことに決めました。『日本書紀』と『古事記』で崩御年が一致するとされる安閑天皇(あんかんてんのう)以前の干支は、紀年延長後に割り振られた可能性があります。だいたい6世紀の第1四半世紀以前の干支はあやしいということです。その干支をあれこれ詮索して歴史を組み立てるのは、より大きなズレを生み出すのではないかと思います。

 

 いま、私が「無事績年圧縮復元法(仮)」を採用して最もよかったと思うのは、実年代との比定に自身の主観を持ち込まなくてよいことです。「絶対にこれが正解だ!」とはいいませんが、この方法では否応なく、とりあえずのものとはいえ神武天皇までの実年代が、さかのぼって設定されてしまいます。つまり、記された干支が何年にあたるとか、『日本書紀』と『古事記』のどちらの干支が正しいのではないかとか、あるいはこの干支は誤記されたのではないかとか、そういった干支の束縛や不必要な決断から解放されるのです。そして、私はその年表を信じて検証、場合によって修正していくだけです。

 

 現在、「原日本紀年表」は、崇神天皇の即位年は301年、神武天皇の即位年は256年を指しています。これは、いま行っている讃、珍、済の検証や、もっとも難しいと思われる神功皇后(じんぐうこうごう)摂政紀の取り扱いによって、多少変わってくるかもしれません。

 

 神功皇后は本当に実在したのかが取りざたされるように、『日本書紀』のなかでもとりわけ特殊な存在です。天皇に即位された訳ではないのに摂政紀が設けられています。そして、その治世を西暦201年から269年に設定して、『三国志』から引用した卑弥呼の朝貢や壹与の朝貢を分註という形で記しています。卑弥呼、壹与という個人名は出さずに倭の女王とされていますが、明らかに卑弥呼と壹与が神功皇后に投影されているのです。

 しかし、現代において神功皇后の治世を201年から269年に設定することに無理があると結論付けられたことは、イコールとして神功皇后摂政紀は創作されたものである可能性が高いということを示しています。神功皇后のモチーフになった人物がいるのかどうかはわかりませんが、神功皇后摂政紀は仲哀天皇紀と応神天皇紀の間に意図的にはさみ込まれたと考えられるのです。

 

 さらに、私は現時点で神武天皇と崇神天皇は同一人物だろうと考えていますので、そこをどうするかの問題も出てくるでしょう。しかし、「こんな復元法があってもよいはずだ」という気持ちで、検証を進めていきたいと思います。

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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