邪馬台国畿内説の都・纒向遺跡から出土した桃の種の年代報道について | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 2018年5月14日、奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)で出土した桃の種が、西暦135年〜230年のものであると判明した、という報道が一斉になされました。14年代測定という放射性炭素を用いた測定の結果が、纒向学研究センターの紀要に掲載されたというものです。もともと纒向遺跡が邪馬台国の有力候補地(畿内説のですが)ということもあり、各メディアは邪馬台国、卑弥呼と関連づけた内容で、この測定結果により邪馬台国畿内説がより強まったという論調でした。

 

 近々、桃の種の測定結果が発表されるのでは、ということは聞いていました。しかし、結果が畿内説に不利なものなので発表が遅れているのでは、という噂も耳にしていたので、正直、今回の突然の発表には驚きました。そして、その発表年代については「それにしても古いな」というのが実感です。ただ、今回の測定は十数個の種を試料としたそうなので、測定結果には一定の信ぴょう性を認めなくてはならないと思います。

 

 一方で、14年代測定という測定法自体にそこまで依存してしまってよいのかという疑問は残ります。私がこの測定法を熟知しているわけではないことを最初に断りつつ概要を説明すると、14年代測定というのは、半減期5730年という放射性炭素(14)の試料内における濃度を調べるものです。植物や動物は生きている間はその内に一定量の14を取り込んでいますが、死ぬと新たに14を取り込むことはなくなります。すると、その遺骸からは14が徐々に崩壊して減っていきます。その速度が5730年で半分になるということがわかっているので、その測定濃度により生物が生命活動を止めてからの年代が推定できるというものです。その測定値は、放射性炭素年代値(BP)として数値化されます。基準となる年は1950年で、それをさかのぼること何年前かという数値です。

 

 その測定値がそのまま実年代に当てはめられるのであれば、ある程度の精度を認めてよいでしょう。しかし、そうではないのです。たとえば、1800BPであれば1950年から1800年を引いて、150年ということになるかというとそうでもないのです。較正曲線という実年代との対応表に照らし合わせて、実年代を推定し直さなければならないのです。これは、地球上ではつねに14の空気中の濃度が変動していて、時代や地域によって増減がみられるからです。それを、各地、各時代の樹木の年輪などの分析データをもとに、より精確な年代に補正するために作られたのが較正曲線なのです。

 そして、やっかいなことにその曲線はかなりのうねりを持つ場合があるのです。図1は以前に歴博が纒向の試料を測定した際に作成されたグラフです。

 

◆図1 測定値から実年代への対照事例

春成秀爾・小林謙一・坂本稔・今村峯雄・尾嵜大真・藤尾慎一郎・西本豊弘「古墳出現期の炭素14年代測定」

国立民俗博物館研究報告 第163集 163ページより引用

 

 これは、纒向65次調査で出土した漆塗盾の漆膜を測定されたもので、1800BPという測定値が得られたようです。グラフは縦軸が測定値、横軸が実年代となっています。グラフ上の左上から右下へ、ある程度の幅を持ってうねりながら下がっていく実線が、日本産樹木年輪による較正曲線です。

 さて、縦軸の1800BPを右側にたどると、240〜250年付近、300年前後、220年〜225年付近の3か所で交差します。つまり、一つの数値から3つの実年代の候補が導かれるわけです。また、14年代測定の測定値はピンポイントなものではなく、だいたい数十年単位のプラスマイナスの数値が付加されています。この1800BPという数値についてもプラスマイナス30年の幅が設定されています。つまり1770BP〜1830BPということになります。すると、較正曲線と重なる推定実年代はもっと広がります。

 さらに問題となるのが、この較正曲線にどれだけ信頼性がおけるのかということです。厳密には、地域や時期、海岸か内陸かなどでもC14の濃度に違いがみられるようです。日本は周囲を海に囲まれた島国という特殊な環境でもあります。また、試料固有の差もあるようです。今回の場合、古代の桃がどうであったかということが問題になります。そのようなことを聞くと、今後より高精度な測定および較正が可能になることを期待しますが、現状では参考程度にしておいた方がよいのでないかというのが私の思いです。

 

 14年代測定についてはこれぐらいにして、今回の報道で私が危惧するのが、また一つ纒向遺跡が邪馬台国と強く関連付けられてしまうことと、纒向遺跡の年代観がより古くなっていくことです。

 私は、『邪馬台国は熊本にあった!』の巻頭や、本ブログの第1回目の記事でも書いているように、「邪馬台国は文献上の存在である」と思っています。『三国志』「魏志倭人伝」に記されなかったら、誰も邪馬台国を知りえなかったのです。そして、そこには邪馬台国までの行程が書き記されています。

 

 一方、当時の日本には多くのクニやムラが存在していたことは明らかです。そんな中で、「ここが邪馬台国だった」と比定するためには、「魏志倭人伝」の行程記述をどのように読み解けばその比定地にたどり着けるのかを明示する必要があります。いまの邪馬台国畿内説はその文献解釈の部分を軽んじて、ひたすら考古学的成果に依存度を高めているようにみえます。一歩下がって、纒向遺跡の年代と邪馬台国・卑弥呼の年代が重なると認めるとしても、纒向は邪馬台国ではない別の国である可能性をなぜ想定されないのかが不思議です。

 

 また、私は纒向を垂仁天皇、景行天皇の宮がひらかれた地であると考えているので、遺跡を安易に古くされるのは少し恐い気がしています。本ブログにおいて「原日本紀の復元」はまだそこまで遡れていませんが、現在のざっくりとした年代観では崇神天皇が4世紀初頭あたりになるのではと思っています。すると、崇神天皇の次代・次々代の天皇の都である纒向はそれより年代が下らなければなりません。そこで年代設定に大きな違いが出てしまうと大問題なのです。

 

 ともあれ、今回の纒向の桃の種の発表については、今後、各方面から評価・検証がなされるはずです。また、西暦135年〜230年となると、畿内説で卑弥呼の墓と位置づけられる箸墓古墳の築造とも多少の年代差が生じるのではないかと考えます。その辺がどのような結論に落ち着くのか、ひとまずその経緯を見守っていきたいと思っています。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

 

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