原日本紀の復元030 倭の五王〈4〉477年の遣使を送ったのは誰か? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 興=允恭天皇(いんぎょうてんのう)について考えます。

 そのために、451年に済が安東大将軍に進号した後の交渉史をみていきます。

 

451年~460年

済死す。(『宋書』倭国伝)

 

451~462年(460年の可能性大)

世子興、遣使。(『宋書』倭国伝)

 

460年

倭国(誰かは不明)、遣使。(『宋書』孝武帝紀)

 

462年

世子興、安東将軍を授号。(『宋書』倭国伝、孝武帝紀)

 

462~478年

興死して、弟武立つ。(『宋書』倭国伝)

 

477年11月

倭国(誰かは不明)、遣使。(『宋書』順帝紀)

 

478年5月

倭国王武、遣使。安東大将軍を授号。(『宋書』順帝紀)

 

 前王の済が亡くなった後に行われた年代不明の興の遣使記事(倭国伝)と、460年の主体不明の遣使記事(孝武帝紀)は同一のものである可能性が大です。つまり、460年に興が宋に遣使したとみることができます。

 一方、無事績年を除いた紀年表(以下、「原日本紀年表」とします)では、458年1月に反正天皇が崩御されたのを受けて、459年に弟の允恭天皇が即位されます。允恭天皇が興であるとすると、即位後すみやかに宋へ使いを送り(460年着)、462年に(この年、改めて遣使したかは不明ですが)宋の孝武帝から安東将軍・倭国王を授号することになります。遣使のタイミングとしては絶好で、何の不自然さもありません。「興」の名は、460年の遣使の際に自称したのか、あるいは462年に授号する際に宋から与えられたのかはわかりません。しかし、「原日本紀年表」をもとにすれば、「興」は明らかに允恭天皇と考えて差し支えありません。

 『日本書紀』では456年に崩御されたと想定され、『古事記』では崩年が不明な安康天皇に比定するより、主観が入る余地もなくすっきりするような気がします。

 

 そうなると、次は興(=允恭天皇)と武(=雄略天皇)が記述に合致した形でうまくつながるかどうかです。『宋書』倭国伝では、「興死して、弟武立つ」となっていますが、『日本書紀』では允恭天皇と雄略天皇は親子です(図1)。大きな矛盾があります。

 
■図1 仁徳天皇から雄略天皇への系図

 

 478年の武の遣使については、『宋書』倭国伝に武の上表文が詳しく引用されています。上表文の内容がこの考察には重要ですので、少し長いですが全文訳を掲載します。

 

柵封された倭国は遠方にあり、藩属国を海外に作っています。昔から祖先は自ら甲冑を付け山川を駆けまわり休むことがありませんでした。東は55国の毛人を征し、西は66国の衆夷を服属させ、北は海を渡って95国を平らげました。徳によって治められた宋は安泰であり、その土地を広げて天子の直轄地は遥かになっています。わが代々の一族は歳を間違えることなく朝貢してきました。臣(武)は愚かといえども祖先の遺業を継ぎ、治める所を率いて天極(宋)に帰崇しています。宋への道は百済を経るもので、船舶を装備しています。しかし、高句麗は道理をわきまえることなく、周辺の併呑を図り、辺境を掠奪し強殺して止みません。そのせいで、毎回朝貢が引き止められたり滞ったりしてしまいます。良風(朝貢の船を進めるための風)を失してしまい、使節が道を進んでも、通じることもあれば通じないこともあります(使節が宋に着くこともあれば着かないこともあります)。臣の亡考(ぼうこう:後述)の済は、高句麗が宋への道を塞いだことを怒りました。百万の弓兵は正義の声に感激し、まさに大挙して攻めようとしました。しかし、にわかに父兄を失い、その功を成し遂げることがまだできていません。喪に服しており、兵士たちを動かさずにいます。そのため、休軍状態であり、未だ勝ち戦を行えていません。今に至りて、軍を訓練し、父兄の志を申し上げたいと思います。正義の部隊・兵士達は文武に功をなすために力を尽くし、目前で白刃を交えることもかえりみません。もし、皇帝(順帝)の徳の恩をもって、敵の高句麗をくだき、うまく方難を鎮めることができれば、前人の功績に替ることはありません。ひそかに、自らには開府儀同三司を仮授し、他の者全員にもそれぞれ仮授し、忠節を尽くすことにいそしんでおります

 

 この上表文には、何名かの倭の人物が登場します。文書を作成した主体者である「臣」と「亡考済」、「父兄」です。まず、その登場人物について考えます。

 「臣」が武であることは確実です。次に、「亡考済」です。「亡考」は亡くなった父であるとして、「亡き父である済」と考えられています。つまり、武の父が済となります。

 「父兄」は2カ所にあらわれます。先の方の「にわかに亡くなった父兄」は、「亡考済」の父と兄であると考えることもできますが、後の方の「父兄」は武の父と兄であるとしか考えられません。同一文書内の同一の語句ですから、特に断り書きのない限り同一人物と考えた方がよいと思われます。すると、父は「済」であり、兄は「興」と考えるのが普通です。

 以上を、通説に当てはめると、亡考=父=済=允恭天皇、兄=興=安康天皇、臣=武=雄略天皇となります。この比定について、明らかな間違いを指摘することはできないと思います。

 

 しかし、私の説は、済=仁徳天皇、興=允恭天皇、武=雄略天皇です。それが成立する仮説を考えていきます。

 まず、亡考=父=済=允恭天皇の根拠の一つとなっている「亡考」です。これについては、無条件で「亡き父」という訳がなされています。ところが、「亡考」は必ずしも父だけを指すものではないようなのです。

 奥田尚氏が、「日本古代社会における「氏」と「部」の出現をめぐって」追手門学院大学文学部紀要32号(1997年3月)の中で次のように述べられています。
 

このことは従来あまり注目されていないが、「亡考」の「考」は必ずしも父である必要はなく、「盛名の父祖」の意味であり、祖父または曾祖父でもよい(*)。これは中国の用例であるから、父や祖父または曾祖父という血統上に位置する人物になるのであり、倭国の現実からすれば観念上の父や祖父または曾祖父(つまり先代、先々代、先々々代の王)を意味するにすぎない。

*この部分の注として以下を付記されています。

諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館・一九五八年)の「皇考」・「皇考廟」の項による(縮刷版・第八巻・七三頁)

 

 氏の考察が正しいとすれば、「亡考済」は「亡き父済」とも読めますが、「亡き祖父済」と読んでも「亡き曾祖父済」と読んでもよいということです。すると、「亡考済」と「父兄」の「父」は同一人物ではなくなります。武を基準に考えて、祖父の仁徳天皇を「亡考済」と設定することが可能になるのです。

 そして、「亡考済」の条件をはずせば、興=允恭天皇説の検証は、『宋書』倭国伝の「興死して、弟武立つ」と、武の上表文中の「にわかに亡くなった父兄」が対象となってきます。

 

 興から武にいたる時代の状況をまとめると、図2のようになります。

 

■図2 興から武にいたる時代

 

 まず、はっきりさせないといけないのは、477年の遣使です。倭王武(雄略天皇)は478年5月に宋に到着した遣使を送っています。上記の上表文を添えていますから、それが武の送った最初の遣使だと思われます。それに対して、六国諸軍事・安東大将軍・倭王を授号されるわけです。

 では、477年11月に宋に到着した遣使を送ったのは誰だったのでしょうか。

 私は安康天皇だったのではないかと考えます。済(允恭天皇)も武(雄略天皇)も即位するとすみやかに遣使を行っています。安康天皇も同様にしたのではないでしょうか。即位の翌年か翌々年とすると、遣使を送り出したのは474年か475年のことになります。それが、477年11月に着いたと考えるのは都合のよい解釈ではないかと思われるかもしれません。しかし、それには確かな理由があったのです。

 

 当時の朝鮮半島の情勢が影響を及ぼしていたと考えられます。

 当時の新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済(くだら)の歴史を記した史書に『三国史記』があります。完成はかなり後世の12世紀とされるので、内容の信ぴょう性には多少問題があると思っていますが、その記事によると、当時、高句麗と百済は頻繁に争っていたようです。

 そして、475年9月、高句麗の長寿王は3万の軍を送って百済の王都であった漢城(かんじょう)を攻め落とし、蓋鹵王(がいろおう)を殺害してしまいます。これは、いったん百済が滅亡したとも考えられるほどの大事件で、百済は翌10月に熊津(ゆうしん)に王都を移して何とか存続していくことになります。

 その百済が翌年、宋に朝貢を試みます。それが、476年3月の記事に残っています。「百済が宋に遣使するが、高句麗に路を塞がれ、達せずに還る」と記されています。当時、朝鮮半島はこのような状況だったわけです。

 

 倭王武の上表文にもあるように、倭の遣使は百済経由で宋に行っていました。そして文中で、高句麗の横暴により遣使が遅れたり断念することがあり、済が高句麗に宋への道を塞がれたことに怒ったと述べています。

 まさに、そのような状況が475年、476年頃にも生じていたのです。それが、安康天皇の遣使が宋に到着するのに477年11月までかかってしまった理由だと考えられます。475年に百済に至った遣使達は、高句麗の攻撃により百済の王族とともに熊津まで逃げ延び、宋への経路の安全を見極めながら時期を待ち、477年11月にようやく宋にたどり着いたと考えられないでしょうか。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

 

 
 

 

 

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