原日本紀の復元029 倭の五王〈3〉天皇の系譜からみる済、興の正体 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
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 倭王「武」は定説通り雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)で間違いないだろうという結論に達しました。

 次は、「興」さらに「済」にさかのぼって考えていきます。『日本書紀』から無事績年を除いた年表と遣使記録の対比表(図1)にしたがえば、おそらく460年〜462年に遣使を送った興は允恭天皇(いんぎょうてんのう)443年に遣使を送った済は仁徳天皇(にんとくてんのう)ということになります。

 それが成り立つのかどうかをみていきます。

 

■図1 倭の五王と日本の天皇の比較年表(再掲)

    *前回掲載時に誤りがありました。讃の遣使は420年ではなく421年です。

 

 中国の史書には、倭の五王の血縁関係が記されています。それを系図化したのが図2です。

 

■図2 中国史書による倭の五王の系図

 

 『宋書』と『梁書』で系図が異なっています。「讃」と「賛」は同じ字と考えてよいかもしれませんが、「珍」と「彌」は明らかに違うようにみえます。ただ、別人であると考える明確な根拠が示されていない現状では、誤記あるいは何らかの原因による文字の相違と考えておく方がよいのではと思います。それより大きな違いは、「珍(彌)」と「済」の関係性です。『宋書』は二人の繋がりを明記していませんが、『梁書』は「彌」の子が「済」だとしています。これをどのように考えればよいでしょう。

 私は、『宋書』記述を信頼するのが最初にとるべき態度だと思います。『宋書』は沈約(しんやく)が南斉の武帝(482年〜493年在位)の命により編纂しています。当然、宋の滅亡から間もないことから多くの関係者が生存している状況の中で編纂作業が進んだと考えられます。

 一方、『梁書』は唐代の636年に姚思廉(ようしれん)が完成させたとされます。宋の滅亡からは150年以上が過ぎています。原史料が『宋書』だったのか、別の先行史料だったのかは不明ですが、内容の正誤を検証することは難しかったのではないでしょうか。また、血縁関係があらわれる記述も「倭王賛有り。賛死して弟彌立つ。彌死して子済立つ。済死して子興立つ。興死して弟武立つ」というように関係を列挙するだけの簡潔なものです。乱暴な想像をすると、彌と済に関連性が必要との安易な判断で「彌死して子済立つ」としてしまった可能性も考えられます。

 現存する『宋書』が、当初の原本から「珍死して子済立つ」という一文が脱落して伝わったものだという懸念はぬぐい去れませんが、以上のことから、『梁書』より『宋書』の記述に信ぴょう性を認める方が本道だと思います。

 

 では、『宋書』の系図をもとに、それに当てはまる天皇がいるのかどうかをみてみます(図3)。

 

■図3 天皇の系図と有力説

 

 すると、その関係性に合致する組み合わせが一つあることがわかります。

 讃=履中天皇(りちゅうてんのう)、珍=反正天皇(はんぜいてんのう)、済=允恭天皇、興=安康天皇(あんこうてんのう)、武=雄略天皇というものです。『宋書』の記さない珍と済の関係は兄弟関係ということになります。関係性をすべて満たしているということで有力な説といえるでしょう。しかし、これが定説になっているかというとそうでもないのが現状です。それは、干支をもとに組み上げられた年代観とのずれなどが原因と思われます。『日本書紀』や『古事記』の没年干支などと比べてみると明らかです(図4)。

 

■図4 当該時期の天皇の崩年

 

 『古事記』の没年干支では、讃が合いませんし、安康天皇の崩年もはっきりしません。『日本書紀』では、讃、珍、済がすべて允恭天皇ということになってしまいます。

  ですが一応、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇というのはほぼ通説になっているといってよいかもしれません。

 

 ところが、無事績年を除くというアプローチ法で『原日本紀』を復元しようとすれば、済=仁徳天皇、興=允恭天皇、武=雄略天皇となります。私としては、これを仮説レベルといえるまでに理論づけしなければなりません。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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