原日本紀の復元028 倭の五王〈2〉倭王武は二人いたのか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


テーマ:

 前回、中国の史書にあらわれた倭の五王の記述から、讃珍済興武それぞれの王の想定最長在位期間をかなり強引にですが導き出しました。それを、私の考えている無事績年を除いた年表の在位天皇と重ね合わせてみます(図1)。

 

■図1 倭の五王と日本の天皇の比較年表

 

 一見して、かなり厳しい状況であることがわかります。この二者に整合性をとることはほぼ不可能ではないかとさえ思えます。やはり、無事績年を除いて「原日本紀」を復元するというのは無謀な挑戦だったのでしょうか。正直、ここでしばらく途方に暮れていました。ひと時、九州王朝説のように倭の五王とヤマト王権の天皇は別物ではないかという思いも頭をよぎりました。

 

 しかし、『日本書紀』の紀年延長がなされる前の『原日本紀』を復元するためには、干支に頼ることを除けば無事績年を除いていくしか手がかりがありません。また、以前の記事で取り上げた笠井倭人氏が考証されたように、その方法にある程度の信頼性もみえてきました。まずは、それを基本軸として年代をさかのぼるしかないと再確認して、倭の五王についての考察を再開しました。すると、いくつかの新たな気づきがあり、多少なりとも解決の糸口がみえてきたように思います。それを、順次記していこうと思います。ただし、当面は無事績年を除いた年表の年代観ありきの考察となりますので、ある程度の強引さは目立つかもしれませんが…。

 

 まず、倭王「武」です。主な記述を列挙します。

 

【年不明】

興死して弟武立つ。(『宋書』倭国伝)

 

【477年(昇明元年)】

倭国、使いを遣わして方物を献ず。(『宋書』順帝紀)※朝貢したのは武でない可能性あり

 

【478年(昇明2年】

(武)使いを遣わして上表。(順帝)詔して武を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に除す。(『宋書』倭国伝)

倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以って安東大将軍となす。(『宋書』順帝紀)

 

【479年(建元元年)】

新たに使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓(・慕韓:欠落)六国諸軍事・安東大将軍を進め、倭王武の号を鎮東大将軍となす。(『南斉書』倭国伝)

 

【479〜482年(建元中)】

武を持節・督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。(『梁書』倭伝)

 

【502年(天監元年)】

高祖即位(502年)して、武の号を征東将軍に進む。(『梁書』倭伝)

鎮東大将軍倭王武、号を征東将軍に進む。(『梁書』武帝紀)

 

 武が雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)であるというのは、ほぼ定説といってよいと思います。そうすると、502年の記事が気になります。502年は、無事績年を除いた紀年表では清寧天皇(せいねいてんのう)の治世です。一般的な通説でも武烈天皇(ぶれつてんのう)の治世(499年〜506年)とされます。

 

 この記述に対する一般的な解釈は二通りあります。

一つは、502年当時に在位していた武烈天皇も「武」であるとする説です。つまり、雄略天皇と武烈天皇の二人が「武」であると認識されたというものです。この説に立つと、私の紀年表では清寧天皇が「武」であることになります。武烈天皇のお名前には「武」が入っていますが、これは漢風諡号(かんぷうしごう)というもので、8世紀に淡海三船(おうみのみふね)が撰したとされるものです。生前の実名であった可能性を指摘されている和風諡号は、小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)です。「武」とは結び付きません。一方、清寧天皇の和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)です。「武」の文字が入っています。どちらかというと、清寧天皇の方が説得力があるように思われます。

 

 もう一つの説は、502年の鎮東大将軍から征東将軍への進号は、梁という新王朝建国(502年)に際しての儀礼的なもので、倭国からの遣使などに応えたものではないと考えるものです。そうであれば、502年に武が生存している必要はありません。

 478年に武が宋に遣使をして以来、中国の情勢は不安定なものでした。翌479年には宋が滅び、南斉が建国されます。そして、502年に滅びるまでに7名の皇帝が入れ替わります。478年以降、遣使の記事がみられないこともあり、倭王「武」の名が502年建国の梁にまで更新されずに語り継がれたとしても不思議ではありません。479年の安東大将軍から鎮東大将軍への進号も、遣使の記事は併記されていません。前年の478年に遣使しているわけですから、479年が武の治世であったことはほぼ間違いないでしょうが、これも南斉建国にかかわる儀礼的なものとみることができます。

 

 私としては、後者の説の方がより真実に近いような気がします。つまり、倭王武は雄略天皇一人であったという考えです。

 倭王武(雄略天皇)は476年の即位からまもなく宋へ遣使を行い、478年に安東大将軍・倭国王を授号されます。479年の宋の滅亡以後は遣使を中止しますが、中国王朝側の都合により、479年に南斉から鎮東大将軍に進号され、続いて502年に梁から征東将軍に進号されていったと考えてよいのではないでしょうか。(続く)

 

お読みいただきありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   
にほんブログ村    古代史ランキング

 

*****

拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

 

M・ITOさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

    ブログをはじめる

    たくさんの芸能人・有名人が
    書いているAmebaブログを
    無料で簡単にはじめることができます。

    公式トップブロガーへ応募

    多くの方にご紹介したいブログを
    執筆する方を「公式トップブロガー」
    として認定しております。

    芸能人・有名人ブログを開設

    Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
    ご希望される著名人の方/事務所様を
    随時募集しております。