原日本紀の復元027 倭の五王〈1〉中国史書の記述に関する基本認識 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
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 日本の古代史において、倭の五王の時代は非常に謎に満ちたものです。それは、倭の五王「讃(さん)」「珍(ちん)」「済(せい)」「興(こう)」「武(ぶ)」が誰であったのかが未だに不明であることからもわかります。

 私の主観も入りますが、最も一般的な比定例は、讃=仁徳天皇(にんとくてんのう)、珍=反正天皇(はんぜいてんのう)、済=允恭天皇(いんぎょうてんのう)、興=安康天皇(あんこうてんのう)、武=雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)です。しかし、この説についても「通説」といえるレベルにまで支持を集めているとは思われません。中国の史書には讃と珍は兄弟だと記されていますが、仁徳天皇と反正天皇は親子であることなど、いくつかの矛盾をはらんでいるからです。大雑把にいいますと、「主に干支を判断材料としてつくられた一般的な紀年論では、五王それぞれをどの天皇に比定したとしても必ず矛盾が生じてしまう」状況だといえます。だから、現在においても確定的といえる結論に至っていません。そして、それによってこの時代についての理解が深まらないだけでなく、五王はヤマト王権とは別の集団の代表者であったなどの異論も語られたりしているのです。

 

 ではまず、倭の五王を考えるにあたっての基本事項から確認していきたいと思います。

 まず、「讃」「珍」「済」「興」「武」という一文字の名前です。これが本当に当時の天皇(大王)を指すものなのかというのは誰でもが抱く疑問です。たとえば、讃が仁徳天皇だとすれば、その名「大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)」とは何の共通点もありません。

 しかし、中国の史書には当時の百済(くだら)や高句麗(こうくり)の王も一文字名で記されているのです。『日本書紀』にもあらわれる百済の近肖古王(きんしょうこおう)は「句(く)」ですし、碑文で有名な高句麗の広開土王(こうかいどおう)は「安(あん)」とされています。それは、自称したのか、中国王朝側から与えられたのかは断言できませんが、この地域の国々において一文字名は慣例になっていたと思われます。ですから、倭の五王はヤマト王権の天皇であった可能性は高いと考えられます。

 

 次に、中国の史書に記された記事内容をみていきます。その中心となるのは『宋書(そうじょ)』の倭国伝と文帝紀・孝武帝紀・順帝紀ですが、『南斉書(なんせいしょ)』『梁書(りょうしょ)』にもいくつかの記述がみられます。ざっと略記すると次のようになります。

 

『宋書』倭国伝

421年(永初2年)

高祖、詔して曰く「倭讃が万里はるばる貢を修めた。遠方からの忠誠にこたえて官職を与えるべし」。

 

425年(元嘉2年)

讃、また司馬曹達を遣わし、表を奉り方物を献ず。

 

不明年

讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献す。(太祖)詔して珍を安東将軍・倭国王に除す。また倭隋ら十三人に将軍号をゆるす。

 

443年(元嘉20年)

倭国王済、使いを遣わして奉献す。復た以って安東将軍・倭国王となす。

 

451年(元嘉28年)

使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加える。並びに23人を軍郡に除す。

 

不明年

済死す。世子興、使いを遣わして貢献す。

 

462年(大明6年)

(世祖)詔して曰く「宜しく爵号を授け、安東将軍・倭国王とすべし」。

 

不明年

興死して弟武立つ。自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。

 

478年(昇明2年)

(武)使いを遣わして上表。(順帝)詔して武を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に除す。

 

 

 

『宋書』文帝紀

430年(元嘉7年)

倭国王、使いを遣わして方物を献ず。

 

438年(元嘉15年)

倭国王珍を以って安東将軍となす。この歳、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国並びて使いを遣わして方物を献ず。

 

443年(元嘉20年)

この歳、河西国・高麗国・百済国・倭国並びて使いを遣わして方物を献ず。

 

451年(元嘉28年)

安東将軍倭王倭済、号を安東大将軍に進む。

 

 

『宋書』孝武帝紀

460年(大明4年)

倭国、使いを遣わして方物を献ず。

 

462年(大明6年)

倭国王世子興を以って安東将軍となす。

 

 

『宋書』順帝紀

477年(昇明元年)

倭国、使いを遣わして方物を献ず。

 

478年(昇明2年)

倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以って安東大将軍となす。

 

 

『晋書』安帝紀

413(義熙9年)

この歳、高句麗、倭国および西南夷銅頭大師、並びて方物を献ず。

 

 

『南斉書』倭国伝

479年(建元元年)

新たに使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓(・慕韓:欠落)六国諸軍事・安東大将軍を進め、倭王武の号を鎮東大将軍となす。

 

 

『梁書』倭伝

晋の安帝の時(397〜418年)倭王賛有り。賛死して弟彌立つ。彌死して子済立つ。済死して子興立つ。興死して弟武立つ。斉の建元中(479〜482年)武を持節・督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除す。高祖即位(502年)して、武の号を征東将軍に進む。

 

 

『梁書』武帝紀

502年(天監元年)

鎮東大将軍倭王武、号を征東将軍に進む。

 

 

 さて、これらの記述を五王名と遣使等の項目に絞って、時系列に並べたのが表1です。念のため、『晋書(しんじょ)』に記された413年の遣使も入れておきます。ただし、この遣使については、事実でなかったという説も強く語られています。

 

■表1 「倭の五王」年表

 

 年表でわかるように、年号の記されない記事や、誰が遣使を送ったのかわからない記事も多々あります。これをもとに、一つだけ前提条件を加えて、各王の考えうる最長の在位期間を割り出したいと思います。前提条件というのは、遣使が日本を出発して宋・斉・梁の都、建康に到着するまでの期間を最長で2年と考えることです。これにより、若干のタイムラグが想定される場合があります。

 また、授号・加号・進号のみの記事についてはどう考えればよいでしょう。それは、倭からの何らかの働きかけに対する反応だとみることもできると思います。しかし、できるだけ可能性は排除しないという立場から、遣使のみをものさしとしてみようと思います。例えば、451年の済の加号・進号の記事については、済の遣使は登場しませんので、済の確実な生存は認められないという立場で考えます。

 すると、図1の年代が導かれます。赤字が遣使の行われた確実な年です。

 

■図1 五王の想定できる最長在位期間

 

 次に、この想定在位期間を、無事績年を除いて作成している私の紀年表と重ね合わせてみたいと思います。(続く)

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

 

 

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