原日本紀の復元019 稲荷山古墳出土鉄剣の471年説・雄略天皇説を否定してみる〈3〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


テーマ:

あけましておめでとうございます。本年もご愛読のほどお願い申し上げます。

 

 稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた「辛亥(しんがい/かのとい)年」=471年説、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」=雄略天皇説について、古墳など考古学的な面からみるとどうなるのでしょう。

 まずは、さきたま古墳群の全体像を確認しておきたいと思います。

 さきたま古墳群は埼玉県行田市にあり、大型の前方後円墳8基と円墳1基を中心に復元・整備されています。

 

図1 さきたま古墳群の古墳配置

 

 これらの古墳について、現在、推定されている築造年代順にみていくと次のようになります。

(数字は、さきたま史跡の博物館の展示より)

 

【稲荷山古墳】前方後円墳(5世紀後半)

全長120m 後円部径62m 後円部高11.7m 前方部幅74m 前方部高(10.7m

 

【二子山古墳】前方後円墳(6世紀前半)

全長138m 後円部径70m 後円部高13.0m 前方部幅90m 前方部高14.9m

 

【丸墓山古墳】円墳(6世紀前半)

全長105m 高さ18.9m 日本最大の円墳とされていましたが、先日の2017年11月15日、奈良市が富雄丸山古墳を直径110メートルの円墳であったと発表し、それが正しいとなると日本最大の座を譲ることになります。

 

【瓦塚古墳】前方後円墳(6世紀前半)

全長73m 後円部径36.5m 後円部高5.1m 前方部幅47m 前方部高4.9m

 

【奥の山古墳】前方後円墳(6世紀前半)

全長66m 後円部径34m 後円部高5.6m 前方部幅40m 前方部高16.0m

 

【鉄砲山古墳】前方後円墳(6世紀後半)

全長109m 後円部径55m 後円部高9.0m 前方部幅69m 前方部高10.1m

 

【愛宕山古墳】前方後円墳(6世紀後半)

全長53m 後円部径30m 後円部高3.4m 前方部幅30m 前方部高3.3m

 

【将軍山古墳】前方後円墳(6世紀後半)

全長90m 後円部径39m 後円部高不明 前方部幅68m 前方部高8.2m

 

【中の山古墳】前方後円墳(6世紀後半)

全長79m 後円部径42m 後円部高5.1m 前方部幅44m 前方部高5.4m

 

 

 さて、最初にして最大の疑問ですが、なぜ稲荷山古墳は5世紀後半~5世紀末の築造だとされているのでしょうか。

 実は、稲荷山古墳は1968年の発掘当初は、6世紀中頃から7世紀初頭に築造された横穴式石室を持つ古墳であると想定されていたようです。しかし、数日の発掘では石室を発見できず、続く墳頂部の発掘によって乎獲居臣(オワケノオミ/オワケノシン)の埋葬されていた礫槨(れきかく)と、埋葬者不明の粘土槨が発見されました。ここで改めて確認しておきたいのは、この二人は稲荷山古墳の本来の埋葬者ではなく、後に追葬された人たちであると推測されているということです。つまり、稲荷山古墳は誰か他の権力者のために造られたものであり、乎獲居臣は稲荷山古墳の築造からはある程度新しい時期の人であるということです。

 

 そして、稲荷山古墳が5世紀後半~5世紀末と推定された大きな理由は、古墳自体から発掘された須恵器の比定年代にあります。

須恵器の編年というのは、考古学者の田辺昭三氏が、大阪府南部の陶邑窯跡群(すえむらようせきぐん)を研究された成果を基準に考えられることが多いようです。田辺氏は、数百年にわたってその地で営まれた1000を超えるといわれる窯跡の遺跡を調べ、相対的な編年を完成させたそうです。そして、形態を分類して型式を設定されています。

それを実年代に当てはめた詳細は知りませんが、5世紀後半から6世紀半ばに対応するのが、ほぼTK23型式 TK47型式 MT15型式 TK10型式という4型式とされます。ちなみに、TKは高蔵地区、MTは陶器山地区(Mt.Toukiからでしょうか?)という地区名からの略号だそうです。その実年代は、おおむねTK23型式が5世紀後半、TK47型式が5世紀末もしくは6世紀初頭、MT15型式が6世紀前半、TK10型式が6世紀中頃とされています。

 そして、稲荷山古墳から出土した須恵器がTK23型式ないしTK47型式だと判定され、稲荷山古墳自体の築造時期が5世紀後半~5世紀末と推定されたのです。

 

 それともう一つ、稲荷山古墳の築造年代の決め手とされるのが、榛名山の噴火による火山灰です。榛名山の二ツ岳は5世紀末ないし6世紀初頭と、6世紀前半の2回にわたって噴火したと考えられています。1回目は渋川噴火、2回目は伊香保噴火と呼ばれています。

 稲荷山古墳出土と類似した須恵器・土師器が、近隣の鴻巣市にある新屋敷遺跡の古墳周濠から出土しましたが、それらはすべて渋川噴火の火山灰の下の層にありました。それは、遅くとも6世紀初頭以前に埋まったことを意味します。だから、類似の土器が出土した稲荷山古墳も6世紀初頭以前に築造されたものであるとされたのです。

 

 さて、ここから上記の推定・比定に反論してみたいと思います。かなり乱暴なものですから、真剣に考古学を研究されている方からはお叱りを受けるかもしれませんが…。

 まず、須恵器の編年についてですが、畿内、河内の編年をそのまま東国に当てはめて差し支えないのかということです。現状、TK23型式 TK47型式 MT15型式 TK10型式などの編年は、発生源といえる河内だけでなく、九州から東国まで同様に適用されているようですが、伝播に要する時間を想定しなくてよいのでしょうか。同型式の須恵器が全国で同時多発的に出現することはあり得ません。すると、発生地から遠方になればなるほど、多くのタイムラグを設定する必要があるのではないでしょうか。

 須恵器が河内の陶邑窯跡群で焼成されると同時に各地へ送られるものばかりであったとすれば、大きなタイムラグは生じないでしょうが、須恵器がそれほど重要な威信財のような存在だったとは思われません。人々の移動を介しての伝播にはそれ相応の時間が必要だったのではないでしょうか。また、製造技術の伝播ということを考えると、技術者が陶邑窯跡群で技術を習得して遠方の各地に同等の製造拠点を作るにはそれ以上の時間を要したはずです。それを考えると、河内の陶邑窯跡群のTK23型式ないしTK47型式より、さきたま古墳群でのTK23型式ないしTK47型式はある程度新しい実年代を与えないといけないと思います。

 

 また、榛名山の火山灰については、他地域の古墳の類似土器を判定基準とするのに、どの程度の信ぴょう性があるのかというのが疑問です。逆に、近隣の古墳周濠に火山灰の痕跡が認められるのであれば、稲荷山古墳をはじめさきたま古墳群にその痕跡を探すことはできないのだろうかと思ってしまいます。それを確認することが、稲荷山古墳の年代確定に最も有効なのではないでしょうか。また、この件に関しては、榛名山の噴火年代自体がまだ決定的に確定されたというわけではないように思います。ある程度の幅をもって語られているような気がします。

 

 そして、土器編年による稲荷山古墳の年代推定でも、榛名山の火山灰による年代推定でも、その結論は鉄剣銘文の「辛亥年=471年」とセットで論じられることが多いと思います。471年説ありきとまではいいませんが、文献解釈と土器編年と榛名山の噴火年代研究が、ともにもたれあっている構造があるようにみえてしまうのは私だけでしょうか。

 このあたりを考えても、辛亥年=471年説、獲加多支鹵大王=雄略天皇説は定説といえるほど強固なものではないのだと思わせてくれます。(続く)

 

お読みいただきありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ  
にほんブログ村  古代史ランキング

 

*****

拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

M・ITOさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

    ブログをはじめる

    たくさんの芸能人・有名人が
    書いているAmebaブログを
    無料で簡単にはじめることができます。

    公式トップブロガーへ応募

    多くの方にご紹介したいブログを
    執筆する方を「公式トップブロガー」
    として認定しております。

    芸能人・有名人ブログを開設

    Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
    ご希望される著名人の方/事務所様を
    随時募集しております。